目次
0 プロローグ
1 5月
2 6月
3 7月
4 8月
5 9月
以下不定期で更新。
0 プロローグ

 鍵盤の上を繊細な指が滑る。透き通った音色が、さほど広くはない部屋に響きわたる。
 ピアノを弾いている本人も気持ちが乗っているのだろう。長い髪を綺麗に束ねたポニーテールが楽しげに揺れている。
 やがて最後の一音の鍵から指が離れた。
 小さくため息を吐いた彼女は誰もいない自室で満面の笑みを浮かべた。
 彼女にとって、楽器を演奏することが一番の幸せだった。
 だが、一人の下級生との出会いで、その順位に変化が起こるときが訪れる。それは誰一人、無論、彼女自身にも知る由はなかった。


1 5月
 新学年、新学期も一月経てばクラスメイトも全体的にそれなりに親しくなる。特に2年生ともなれば、この春のクラス替えで初めて知り合った生徒ばかりでもなく、例えば部活で一緒だったり、 たまたまアルバイト先が同じだったりと、様々な理由で既に知り合っていたり、意気投合していたりということがあり得るだろう。
 ただ、それでも、残念ながら、まだ内気な性格だったり人見知りする生徒は孤立していたり友達がいなかったりすることもある。
 そういう孤独な状況を少しでも減らそうとしている学校側の思惑で、ゴールデンウィークはあまり授業には充てられず、男女混合球技大会が催される。ここ、都立空見高校はそんな高校だ。
 毎年催される球技大会は、1年ごとに種目が変わる。
 1年はサッカー、2年は軟式野球、3年はバスケットボールという具合。
 そしてクラスは、半数ずつで2チームに分かれる。
 三崎陽一は2年生だ。つまり、今年は軟式野球に参加している。
 決勝戦――。陽一が参加している2年2組Aチーム(Bチームはすでに敗退している)は、4番・安藤早雲、5番・三崎陽一の連続ヒット+エラーでチャンスを掴んだものの、9回ウラ2アウト。陽一のクラスが1点のリードを許している。
 そこで登場したのが、時田美奈。女子だが、男子顔負けの運動神経を誇る。
「時田ー!頼むぞー!」
 3塁ベースの上から、早雲がバッターボックスに向かって叫んだ。
「まかしとき! ちゃんと返したるから」
 行動力はある方で、それだけでなかなか目立つ。が、彼女が普段から、そのネイティブな関西弁で喋ることも目立ち具合に拍車を掛けている。
(なめやがって)
 男子ソフトボール部のエースが、マウンド上で憤っていた。
 ソフトボールも野球の一種。だが、軟式野球だから反則ではない。だから、ある程度のアドバンテージは彼にある。はずだった。しかし、こと美奈に関してはそれは意味をなさなかった。
(ここまで…)
 2塁ベース上で、陽一はここまでの美奈の成績を思い出した。
(ここまで3打数3安打1フォアボール。あいつならやってくれる、気がする)
 8番バッターらしからぬ成績である。男女だからいかんともしがたいパワーの差があるおかげで、長打にこそなっていないが、テクニックでそれを補ってあまりある成績だ。
「なんであんなのが8番打ってんだよ、ったく」
 小さく呟いたマウンド上の投手は、少しいらつきながらセットポジションに入った。
「ここは初球のまっすぐしかないやろなあ」
 美奈は冷静に状況を分析してみた。
「変化球から入ってくるかもしれんけど、それは全部ボールになるはず。まっすぐまっすぐ」
 やがて投球プロセスが始まった。
 ザッ……
 男子ソフトボール部のエースがゆっくりと右足を上げる。続いてグラブをはめた右腕が彼の胸元まで上がる。左腕はまだ腰の後ろに隠れている。握りは美奈の方向からは見えない。
「!」
 美奈はバットを握る両手に力を込めた。
 やがて彼の左手が後頭部まで上がった。
「なめんなぁ!」
 小さく叫んで彼は渾身の力を振り絞って、投げた。
 その瞬間、美奈の瞳が、大きなメガネのレンズの奥で、キラリと光った。
 スピードこそ予想以上の速さだったが、美奈の読みどおり、ストレート。
「ふっ!!」
 一閃!
 バットは、音を立てて、ボールを跳ね返した。
 痛烈な勢いで打球は1〜2塁間を真っ二つに切り分けるように走った。
 早雲はゆっくりとホームイン、だが。
 ボールの勢いが強すぎた! 前進守備だった右翼手がボールを抑えた時、2塁ランナーの陽一はまだ3塁を少し回ったところだった。
 右翼手は力いっぱい本塁へ向かって送球する。
「陽一!」
「陽一君!」
 早雲が、幼なじみの萌が、心配そうに陽一の名を叫ぶ。
 しかし、当の陽一は意外と冷静でいる。
(元陸上部、驚くな?)
 ホームの手前5メートルで、陽一はギアを上げた。
 返球が陽一の肩をかすめた。足から滑り込む陽一。
「セーフ! セーフ!」
 球審を務めていた体育の主任教師が腕を2度、左右に広げた。
 白熱の決勝戦は、2点を奪った陽一のクラスがサヨナラ勝ちを収めた。
 ホームベース周辺に歓喜の輪が広がる。
「時田! よくやった! さあこの胸に飛び込んでこい!」
 早雲は腕を開いた。
「安藤君!」
 満面の笑顔で美奈は早雲に向かって駆け出した。
「ってアホかーっ!」
 早雲の首に見事なウエスタンラリアートが炸裂! 仰向けにぶっ倒れた早雲は
「ケ、ケチ……」と小さく呻くことしかできなかった。
 暫く起き上がることのなかった早雲を見下ろし、
「フ」と不敵な笑顔をたたえながら、右手の中指でメガネを押し上げた。

 こうして、今年の軟式野球部門は、陽一のクラス、2年2組Aチームの優勝で幕を閉じた。
 なお、この日以来、時田美奈の通り名は「驚異の8番バッター」になったとかならなかったとか。

 夕暮れ――
 陽一、萌、美奈の3人は帰路についていた。
「それにしても美奈ちゃんさすがだね」
 萌がしきりに感心している。
「おおきに」
 関西人でも今は使う人が減っている言葉で、美奈は返した。
「4安打2打点、サヨナラ勝利打点付きだもんな」
 あそこまでやられては、男子にも何も言えない。
「ウチ、小学生の時リトルリーグにおったからな」
 照れながら美奈は返す。
「中学の3年間と去年の高1のときはほぼ実戦ゼロのブランク状態やったから、ちょっと不安やったけど」
「スポーツ推薦で大学とか行けそうだよね、美奈ちゃん」
「ん−、どうやろね? 進学せんと働こうかとも思ってんねんけど」
 実は美奈には夢がある。それは女優になること。そういう意味で、進学はせずに働く、と言っているのだ。
「そっかー、ちょっともったいない気もするけど」
 萌はまるで自分のことのようにしょんぼりする。
「萌、それアンチョコやで」
「あん、何?」
 意味が分からない萌。
「ア・ン・チョ・コ」
「あんことチョコレート?」
 陽一がバカなボケをかます。
「そうそうこのダブルの甘さが口の中に広がってまさに贅沢な・・・ってちゃうわ!」
 美奈は右手の甲で、軽く陽一の胸元を打った。
「さすが、関西出身、見事な乗りツッコミ」
「何感心してんのよ陽一君」
 まるでトリオ漫才のようになってきた。
「ええやん。おもろいおもろい」
 美奈はケタケタと笑う。そうこうしているうちに3人は三叉路にたどり着いた。
「ほなウチこっちやから」
「おう、またな時田」
「バイバイ、美奈ちゃん」
「うん、また明日な、ご夫妻」
「もう美奈ちゃん!」
「冗談やって、怒りなやー」
 そうカラカラと笑って手を振りながら美奈は二人とは違う方向に歩を進め始めた。
 そこで陽一は改めて萌に問うた。
「なあ萌、アンチョコって……何だ?」
「わかんない。関西弁なのかな、やっぱり」
 うーんとか呻きながら、星が瞬き始めた空の下、二人も歩き始めた。

 週が明けた月曜日。
 2年2組の教室は、いつもと違うにぎやかさがあった。
 先週の球技大会優勝の立役者が主役だった。
「元リトルリーグなんだって? さすがだなあ」
「せやけど小学生の子供の頃の話やで。ブランクありまくりやん。まあ反則やったかもしれんなあとも思わんこともないけどやー」
「でも美奈だったらどの競技でも活躍できそう。運動能力ハンパないもん」
「いやいやそれはどうやろねー。ウチかてやったことない競技やったらポンコツかも知れんで?」
 女子だがヒーローだ。
「おはよー!」
 そこへ副クラス委員長の江良愛子が登校してきた。
「あ、おはよう、えらあいこ」
 一人の女子生徒が応える。
「フルネームで呼ばないで。別に偉くないし」
 スルスルと返す。
 ここまではいつも通りのやりとり。いわゆる「おやくそく」というやつだ。
「月城、ちょっといい?」
 愛子が手招きすると、萌がニコニコしながら近寄ってきた。
「どう? 首尾は?」
「大丈夫。発表してもいいよ?」
「オッケー。じゃあホームルームでね」
 何か企んでいるようだが? 何だ?
 何人かの生徒は反応したが、それ以上触れる者はいなかった。

「おおー」
 クラス中がどよめいた。ホームルームでの副委員長の愛子の発表にだ。
「料理研究部の部長、月城さんに相談したところ、快く、引き受けてくれました」
「おおー」
 今度のはどよめきではなくちょっとした歓声だった。
「料理研究部の全面協力で、球技大会優勝記念パーティー、凄いでしょ?」
(この学校にそんな制度もイベントもないが)ミス空見高(と名高い彼女)の月城萌の手料理が食べられる!
 そう思った男子生徒の声が歓声の大半を占めていたのが実際だが。
 現状、彼女の手料理を食べることが出来るのは、幼なじみの陽一だけだというのは校内でも有名である。
 中には、陽一と萌が付き合ってると誤解している生徒も少なくない。
 萌の手料理は、ある意味、全空見校男子生徒の憧れのアイテムでもある。
「すげー、月城の手料理が食べられるんだぜ!」
「俺、タッパーに入れて持って帰ろっかなー」
「そうだそうだ、毎日ちょっとずつ食べるぜ」
 と、そこかしこで男子生徒が盛り上がっている。
「料理研究部の部員、全員で作ってくれるそうです……って聞こえてないね、多分……」
 だが、いつも萌の新作料理の実験台……もとい、試食係のようなことをしている陽一は、その盛り上がりが理解できない。
「なあ早雲、なんでみんなあんなに盛り上がってるんだ?」
「うん、お前にはわからん」
「そうか。難しいな」
 早雲の端的な答えにあっさり引き下がる陽一。
 愛子の話はまだ続く。
「日時は、今週の土曜日のお昼2時。場所は校内3階の家庭科実習室です」
「副委員長、バナナはおやつに入りますか?」
 ある男子生徒が手を挙げて質問した。
「遠足じゃない!」
 教室中が笑いで満たされた。
 だが、こういった声も上がった。
「でもさー、優勝したのはAチームで、Bチームは1回戦敗退だぜ? 一緒になって喜んでいいのかよ?」
「そーでしょー、そう言う子もいると思った」
 一瞬表情が曇る愛子。
「あの私、思うんだけど……」
 その疑問に答えたのは愛子ではなく、萌だった。
「Aチームが優勝したのもBチームが1回戦で負けちゃったのも事実だけど、負けた後も一生懸命応援してたじゃない、Bチームのみんな。それがAチームの力になったんじゃない?」
「せやな」
 美奈がそれに続く。
「ウチらかて、みんなが応援してくれてるの分かったから一生懸命頑張ってんで? 自分らが負けたからってそこでいじけられてほったらかしにされたら、Aチームの士気もだだ下がりになっとったわ」
「それに、私もBチームだったよ? でも」
 萌が真摯なまなざしでクラスメイトの表情に顔を巡らせ、優しく説くように話す。v 「1回戦で負けても、Aチームを頑張って応援した。自分を褒めたいとまでは思わないけど、労ってはあげたいかな。Bチームだったからって、悲観的になったり自分を卑下したりしなくていいって思う」
 一同が、静かに頷く。
「そうよね。私もそう思う」
 一瞬だけ曇った愛子の表情は、すでに晴れやかになっている。
「団体行動とかスポーツとかって、一部の人だけじゃどうにもならないことってある。舞台の芝居でも大道具の人たちがいないと殺風景だったり雑だったりでろくなものにならないだろうし、プロ野球だってJリーグだってレギュラー以外にも控え選手、ファンやサポーター、いろんな人たちが関わっているから成り立つ。そういうことだと思う」  教室の隅で、事の次第を静観していた担任教師は、いかにも頼もし気な表情を浮かべている。
「でも月城、いいとこ持ってくんじゃないわよ」
 静かだった教室が、笑いで満たされた。
(さすが副委員長、場の和ませ方、わかってんな)
 と感心した陽一だが、同時に、はたと気が付いた。
「あれ? そう言やあ、クラス委員長は?」
「おまえ今更何言ってんの? あいつ、こないだの球技大会で足の骨折って入院だろ?」
 早雲は冷たく言い放つ。が
「つっても、あいつはクラス委員のわりに影が薄いからな」
 可哀そうだけど仕方ないかも。
 口には出なかったが、早雲の言葉はそう続いていた。

 優勝記念パーティーは予定通り行われることになった。ちなみに土曜日なので学校自体は休みだ。
 家庭科実習室には前日に退院したばかりのクラス委員の姿もあった。
 無論、全員制服着用である。
「なんで休みの日までわざわざ制服に着替えて学校に?」
 そうぼやく生徒も散見されたが、学校側と生徒側(主に料理研究部)での折衝に色々とあったらしいと分かったため、皆納得しての開催だった。
「これがタダで食えるとは」
 目の前に並んだ、いかにも美味しそうな料理を見て、早雲が感動にも似た声を漏らした。
「確かに美味そうだ」
 陽一も同意する。食べ盛りの高校生男子としては、嬉しい。
「しかも……」
 早雲はちらりと、忙しそうに、だが手際よく用意をしている料理研究部の面々に視線を向けた。
「月城は勿論だけど、他の部員もかわいい子ばっかり。今日はハーレム状態だな」
「せやなー、クラスもかわいい子いっぱいおるしなあ」
 感情も抑揚もない声が早雲の背後から聞こえた。
「ああ、まったくだ。神様有難うって、ぅおぁ!」
「わけわからん悲鳴あげなや」
 笑う奈美。
「はーい、みんな注目ーっ!」
 パンパンと手を叩きながら、今日のパーティーの仕掛人である愛子が声を上げた。
「時間が来たことだし始めるわよ」
 よっしゃー、とか、わーい、とか色んな声が上がる。
「じゃあ骨折くん、挨拶」
「江良さん、やめてくれるそういう言い方」
 苦笑しながら懇願する彼。部屋中から笑いが起こる。失礼な話でもあるが、彼が愛されキャラなのが分る。
「30秒でまとめてね?」
 愛子の顔は笑っているが圧力がある。
「え、さ、30秒。えと」
「10秒経過」
「えぇ? おれは、足の骨折って、文字通りみんなの足引っ張ってBチームが負けた」
「20秒、あと、10秒」
「ああ要因ででもAチームは優勝で良かったと」
「タイムアップ! やめてくださーい。やめてくださーい」
「……優勝おめでとう」
 委員長は最後に絞り込むように声にした。
 愛子、容赦なし。
「ええ夫婦やなーあのふたり。まるで夫婦漫才やで」
「時田うるさい!」
 愛子、目ざとい。
「う、地獄耳」
 たじろぐ美奈。
 愛子、恐るべし。
「はいじゃあみんなグラス持って。ってか紙コップだけど」
 めいめいがコップを上げる。中は当然ソフトドリンクだ。
「こないだも言ったけど、優勝したのはAチームでも、Bチームも力になった。それはみんな自信を持っていいと思います。このあとも体育祭や文化祭、みんなで一緒に頑張りましょう。じゃあ、今回の優勝を祝して、かんぱーい!」
「かんぱーい!」
 紙コップを掲げてみんなの声が一つになった。続いて「おめでとう」「ありがとう」と声が続く。
「月城先輩、こっちはもう大丈夫ですから、みなさんで楽しんできてください」
 エプロン姿で忙しくしている萌に、後輩の料理研究部員の星野睦妃が声を掛けた。
 睦妃は1年生だが、信じられないようなプロポーションをしているうえ、美形でもある。
 それゆえ、(この学校にそんな制度もイベントもないが)次期ミス空見高の最右翼だと言われているといないとか。
 一説には「休みの日に街に繰り出したら1日1回はナンパされる」と言われてもいる。
「え? でも」
「こっちは私たちに任せて下さい。月城先輩のレシピ通りに、ちゃんと作りますから」
 実は、睦妃は、料理の腕が未熟である。それが分かっているから、萌は一抹の不安を抱いている。が。
「睦妃の言う通りよ、萌。あんたも主役の一人でしょ。行ってきなさい」
 萌と同学年の料理部員も背中を押す。
 躊躇はしつつも萌はその言葉に甘えることにした。
「ん、わかった。でも何かあったら言ってね」
「わかったわかった。はい、いってらっしゃい!」
 ポンと背中を押された萌は、楽しそうに歓談しているクラスメイトの中に混じって行った。
「月城先輩……」
「ん?」
 睦妃の小さな声にその先輩が気付いた。
「いえ、月城先輩って、気配りができるというか、思いやりがあるというか、いい人だなって、思っちゃいました」
「そうね。もっと楽にしてもいいんじゃなかって思うけど、あの子の性格なのね、あれは。いい奥さんになるわよ、きっと」
「あ、そう言えば、月城先輩って、あそこにいる三崎先輩と付き合ってるんですか?」
「ただの幼なじみだって萌本人も言ってたし、三崎君もそういう素振りは見せない。本当に違うと思うけど。睦妃、案外下世話だね?」
「あ……」
 先輩にからかわれた睦妃の顔が真っ赤になった。
「冗談だって。憧れの先輩だものね?」
 そう言われて睦妃は何も言えずにうつむくだけだった。
 そしてちらりと、萌に視線を向けた。
 萌はクラスメイトと楽し気に談笑していた。

 やがて……
「はーいみなさんお待ちかね! ヒーローインタビューでぇーす! 決勝戦の成績は4打数4安打2打点、決勝タイムリーの時田美奈の登場だー!」
 早雲はおしぼりをマイクに見立てて、インタビュアーを気取っている。
「おー」
 どよめきと拍手が同時に起きる。
「インタビュアーはわたくし、安藤・まじですか・早雲でお送りしまーす!」
 どよめきは笑いに変わった。中には
「バーカ」「何言ってんだ」
といったヤジも混ざっている。早雲は不敵な笑みを浮かべて右手の親指を上げて見せた。
「何やってんだあいつ」
 陽一には理解不能だった。
 萌は言う。
「受けたと思ったんじゃない?」
「いやー。大活躍でしたね時田さん!」
「おおきにー」
 今日もこの返し。どうやら美奈の定番らしい」
「まずは今の気持ちを聞かせて下さい。」
「はい……私、私……」
 急に涙ぐむ美奈。
 早雲は想定外の事態に動揺を隠せない。
「嬉しいっ!」
 その小さな体を大袈裟に右から左に振る。が、その顔は「にひひ」という声が聞こえてきそうないたずらっ子の顔だ。
「え?」
 訳が分からずにいる早雲。
「だって、このパスタ美味しいもん!」
 ここに至って、早雲は、いや、他の生徒たちも理解した。
「ギャグかよー」「よっ! 関西人」「騙された!」
 そんな言葉も意に介せず、美奈は続ける。
「ジョーダンやん! 共通語で喋ってる時点で気付いてえな」
 確かにいつもと喋り方が違っていた。最初の「おおきに」は別として、それ以外は関西弁は出ていなかった。
「あの……真面目に答えた方が良いん?」
「いや、まあ」
 不意に真剣な表情になった美奈に、早雲は曖昧な返事しか返せない。
 美奈は真面目に語り始めた。
「ブランクあるって言うても、小学生の頃はリトルリーグで真剣に野球に打ち込んでたし、それなりに成績も残してたから、ある程度はプライドもあるし。やるからには勝ちたいし。萌もこないだ言うてくれたけど、みんな応援してくれてたから、 それに応えたかってん」
 みんな何も言わず、美奈の言葉を聞いている。
「それに優勝できたんはウチだけの力とちゃう。ウチ含めて決勝戦の猛打賞も3人もおるし。あ、猛打賞って3本以上ヒット打つってことな。んで、3人のピッチャーも少ない失点で抑えてくれたし。守備もエラーがなかったし。 勝つべくして勝ったって思うねん」
 立て板に水。よどみなく語る美奈。
「でも、優勝に貢献出来たのは良かった。それはホンマにそう思う」
 それを聞いてるみんながしんみりしている。女子の中には、目を潤ませている生徒さえいる。
「このワインもおいしいし」
 抑揚なく言う美奈。すぐにギャグだと分かった。
「結局落とすのかよ! それにワインじゃねーし!」
 早雲が素早く突っ込む。
「ウチ関西ネイティブやもーん」
 笑いが実習室中に満たされる。
「しゃあねえな。では最後に俺から時田に熱い抱擁を……」
「それはええっちゅうねん!」
 美奈の得意技、裏手ツッコミが早雲の胸元に炸裂する。
「やった! 関西人に突っ込まれた! しかも裏手ツッコミ!」
 ここでも夫婦漫才が繰り広げられている。
 この一連の動きにも、陽一は首をひねった。
「なんで喜んでんだあいつ?」
「美奈ちゃんに感化されて、ああいうノリが楽しくなってるんじゃないかな?」

 2年2組が家庭科実習室で盛り上がっていたことからわかるように、土曜日とは言え学校が閉鎖されていたわけではない。
 休日活動中の部活もあるし、図書室も自習に自由に使えるようにと開錠されている。
 そして、音楽室も。
 いつものようにポニーテールを揺らしながら、彼女はピアノに指を走らせていた。
 それは誰も知らない曲。曲に名前も付いていない。彼女がアドリブで弾いている曲だ。
 いい意味で、高貴な雰囲気は感じられない。ピアノを弾く、という行為にクラッシック音楽を想起する人もいるだろうが、彼女にとっては、違う。
 彼女の表現方法であり、彼女の想いを表すのが曲なのだ。
 父親は著名なピアニストだったため、そのテクニックは父親譲りではある。実際、ピアノを弾き始めたのは父の影響だったし、弾き方を最初に教わったのも父からだった。
 だが当然のことながら、彼女には母親もいて、二人の血を受け継ぎ、二人の愛情を目一杯注がれながら生まれ育ってきた。
 その母の血が、ある種の堅さ、或いは、聴く人を選ぶジャンルの音楽である、というようなものを感じ取っていたクラッシック音楽ではなく、ポピュラー系の音楽に彼女を傾倒させていったのだ。
 彼女が音楽室でピアノを弾き始めてから、時間は3時間を経過していた。
「あ、もうこんな時間。そろそろ帰らないと」
 少し慌てながらピアノの蓋を閉め、帰る支度を整えると、部屋の施錠をして、彼女は音楽室を後にした。

 2時間以上続いた、2年2組の優勝記念パーティーは、皆それぞれが後ろ髪を引かれるような余韻を残したまま幕を閉じた。
 それぞれ、バイトに向かう者、2次会のカラオケに向かう者、真っ直ぐ帰る者と多岐に及んでいたが、後片付けは料理研究部の部員に任せっきりにせず、全員で手伝った。
 おかげで思ったほど時間は掛からずに、部室を閉めることが出来た。
 しかもそれは、誰に強制されたでもなく、ごく自然にそんな流れになったのである。
 そんなことが出来るのは、影の薄いクラス委員長も、実質的な権限を持つ副クラス委員長の愛子も、口にこそ出さないが、他のクラスに自慢できる、2年2組の長所だ。
 それでもやはり、料理研究部のホームである家庭科実習室である。最終的には部員たちが責任をもって終わらせなければならない。
 萌たちは、全ての片付けが終わったことを確認して、ようやく解散となった。
「お待たせ、ごめんね陽一君」
 萌が陽一に小さく手を振りながら近づいてきた。
「終わった? じゃあ帰ろうぜ」
 壁にもたれかかっていた陽一はいじっていたスマホをジャケットの内ポケットに放り込んで身を起こした。
「月城先輩、三崎先輩、さよならー」
「おつかれー」
 睦妃たちが二人を追い越していく。
「おつかれさま、今日は有難う」
 そう萌が言うと、ある者は小さく手だけを振り、睦妃は振り返って小さく頭を下げた。
 そして二人も歩き始め、渡り廊下に差し掛かった時、陽一は、遠くにポニーテールの横顔を見た。
(あれ? あの人)
 どうにも見覚えがある、特徴的な髪型。
 ポニーテールにも色々あって、まとまり方が雑な女子もいるが、彼女の場合は「美しい」と言えるほどに、綺麗にまとまっているので陽一の印象に残っている。
 だが、それがいったい誰なのか思い出せない。
「どうしたの?」
 歩く速さが少し遅くなった陽一に怪訝そうな顔を向けて、萌は尋ねた。
「あ、いや、何でもない」
「そう?」
(まあいいか)
 陽一はそれ以上は深く考えず、萌との会話に戻った。

2 6月

 梅雨の季節がやってきた。
 まだ梅雨入りはしていないが、ここ数日は曇り空の日が多い。
 今日の空も曇っている。そして、立ち込めている雲の色は、暗い灰色……。
 玄関から出てきた陽一は普段のカバンだけを持っていた。
 迎えに来ていた萌は尋ねる。
「陽一君、傘は?」
「いらない。降ってないもん」
「今は、でしょ? 天気予報じゃ降るって言ってたよ?」
「あー、世間にはそんなものもあるらしいな」
 陽一は少しの間考えた。
 そんな当てにならない天気予報など信じて荷物になるような傘を持っていくべきなんだろうか?
 それに、お節介の塊のような萌の言いなりになるようなことは避けたい。
 陽一は、姉であるかのように自分の母親以上に世話を焼く幼なじみに抗いたい気持ちはいつも持っている。
 となれば、選ぶ選択肢は一つ。
「俺は自分で見たものしか信じない!」
(陽一的には)毅然とした態度で言い放つ。
「何それ?」
 萌は露骨に眉をひそめた。
「ずぶ濡れになっても知らないからね?」
「もちろん」
 この件についてはこれで終わり。二人はいつものように通学路を歩き始めた。

 放課後、変わらぬ曇り空の下、足早に下校する陽一。
 萌は部活に出ているため。今日は一人だ。
 帰路、ちょうど半分を過ぎたところで……
『ザァァァァァァァァァァァァー』
 大粒の雨が降りだした。
「マジか!?」
 今朝の萌の助言に従わなかったことに若干後悔しながら、陽一は少しでも雨に濡れないようにとカバンを頭の上にかざして走り始めた。
 しかし、その抵抗も虚しく、陽一が風邪を引いたのは言うまでもない。
「ほら」
 と萌には怒られ
「バカねー」
 と母親には呆れられ、自分が悪いとはいえ、踏まれたり蹴られたりの状況に陥ったのだった。
 数日後、関東地方は梅雨に入った。

 自室の窓から外を見た陽一は、梅雨憂欝だ、と独り言ちた。
 同じころ、同じように自室の窓から外を見た舞子は言った。
「梅雨かー。北海道にはそんなものないのに」
 気だるいまま、舞子はベッドから抜け出た。
   そのままクローゼットに向かう。
「今日も就職活動……」
 今日何度目かの同じ言葉を口にしたことに思わず苦笑してしまった。
「雨……やだな」
 舞子はクローゼットを開けて、今日着ていく服を選ぶ。
 いつもとあまり変わり映えのしない、濃紺のスーツを選んだ。
 ハンガーが付いたままのスーツをベッドに寝かせて、キッチンに向かった。
 が、はたと立ち止まる。
「ブラ……」
 舞子は寝ている間は、基本的にブラジャーはしない。したほうがいいとはわかっているものの、締め付けられる感じがして嫌なのだ。
「は、あとでいいや」
 スーツと同じように先に選んでおこうとも思ったが、朝食を作る方を優先する。
 風原舞子。北海道出身の大学生である……。

 数日後の夜、陽一は夢を見た。
 そこは自分たち以外誰もいない屋内プール。スタート台の上にいるのは、自分と、そして、萌。
「あれ、萌って泳げたっけ?」
 はっきり言って、萌はかなづちである。はずだが?
「何言ってんの? 私が泳げないわけないでしょ。それより勝負よ、陽一君」
「え? いきなり?」
 動揺する陽一だが
「当たり前でしょ? 何のためにこんな高い所に上ってるのよ」
「ああ、そうか」
 あっさり引き下がった陽一に畳みかける萌。
「いい?」
「よし!」
 陽一は腰に両手を当てて胸を張る。
「よし!」
 萌も陽一をまねる。そしてすぐ、長い髪を器用にたばねてスイミングキャップに収める。あまりにも滑らかで手の動きが見えない。
(どうやったらあんなに淀みなくできるんだ?)
 陽一が感心してる間に、萌はキャップをかぶった。
「約束、忘れないでよ?」
「そっちこそ、泣くなぁ?」
 そう言えば約束って何だっけ? という疑問が陽一の脳裏に浮かんだが、気にしないことにした。勝つ自信があったからだ。
「あの時計……」
 二人が立つ飛び込み台の向こうに、大きな時計がある。
「秒針がゼロになったらスタート。いいな?」
「わかった。よーい」
 萌も、陽一も前屈姿勢になった。
「!」「!」
 二人は同時に飛び込み台を強く蹴った。
 ……。  その瞬間、陽一は夢から覚めた。
「ん−……。ん?」
 現実。そこは陽一の部屋だ。
「陽一! 陽一! いつまで寝てるの!」
 階下から母親の声が聞こえる。
「朝か? あれ?」
 目も頭も起きていない陽一は、いまいち状況が理解できていないが、自分が普段とは違う向きで寝ていたことに、まず気付いた。
 なんとなくうっすらと覚えているのは、夜中にトイレに起きたことだ。おそらく戻ってきたときに寝ぼけて逆向きにベッドに潜り込んだんだろう。
 が、それよりも、陽一の頭にくっきりと残っているのは、夢を見たことだ。しかもその夢では……
「陽一! ちょっと降りてきなさい!」
 母が呼ぶ。
「へいへい」
 聞こえるはずのない返事をして、陽一は寝間着にしている半袖のTシャツとジャージのズボンのまま、1階へ降りて行った。
居間に入ると、そこにいたのは……。
「あれ、おばさん」
「あ、陽ちゃんおそよー」
 ニコニコと言うかニヤニヤと言うか、そういう顔をして、萌の母が座っていた。その向かいには、陽一の母。
「珍しいね、日曜日に。仕事は休み?」
「まあね。ささ、座って座って」
 ぽんぽんと床を叩いて陽一を促す。
「うん……」
 二人が左右に分かれるように腰を下ろした陽一に、皿に乗ったケーキが差し出された。
「はい、富士見屋のチョコレートケーキ。陽ちゃん大好物でしょ?」
 何か嬉しいことでもあったのか、萌の母はずっと笑顔を絶やさない。が、こういうときは決まって何かを企んでいる。
 人生17年の経験がそれを知っている。
「こっちもどうぞ、はい」
 続いて冷たい紅茶が入ったグラスが、陽一の前に置かれる。
「アールグレイのアイスティー。フランス産なの。美味しいわよ。結構高価だし」
「ありがとう。頂きます。で、何?」
「ん−? 何が?」
 笑顔のまま、萌の母はすっとぼける。その目を、陽一はしっかりと見つめる。
 5秒間の沈黙。
「もーしょーがないなー、そんなに見つめてくれちゃって。おばさん照れちゃうわ」
 敵(?)はまだ態度を変えない。
「誤魔化してもダメだよ。何か頼み事、でしょ?」
「エヘー、ばれちゃったか」
 小さく舌を出す仕草が若い感性を窺わせる。ちなみに陽一の母と同じ年齢だ。
「梅雨に入っちゃってちょぉっとね〜憂鬱じゃない? 早く明けて夏にならないかしら? 陽ちゃんもそう思わない?」
「そうだね」
 陽一は適当に相槌を打って、ケーキを頬張る。
(美味い。何度食べてもこの富士見屋のチョコレートケーキは最高だと思う)
 口にはしなかったが、感動にも似た感覚が体中を駆け巡る。
 そんなことには気付かない(興味もない)萌の母は続ける。
「陽ちゃんは夏休みはどこに行きたい?」
 陽一は思考能力が渋滞しているままで答える。
「んー? 別にどこにも。ウチん中涼しいし、出掛けても疲れるだけだし」
「あんた何言ってんの? ウチん中でダラダラなんて母さん許さないわよ」
 間髪入れずに、キッ、と陽一の母は息子を鋭いまなざしで睨みつけた。
「別にダラダラする気はないけど……」
 図星を突かれた陽一は思わず口ごもる。
「まぁまぁ、2人とも」
 宥めに入る萌の母。親子げんかに見えたのだろう。
 しかし陽一はそんなつもりはない。好戦的になっているのは母の方だけだ、と。
 そこで話は本題に入る。
「陽ちゃん、萌がかなづちなのは知ってるでしょ?」
「うん」
「親の私が言うのもなんだけど、あのコ、家事も卒なくこなすし、勉強の成績もイイじゃない?」
 そうだ。萌は掃除も洗濯もかなり好き。時々、俺の部屋まで掃除しにくる。
「陽一君、またこんなに散らかして〜」
と、呆れながらも楽しそうに、手際よく片付けてく。陽一としちゃ、
「あーっ、見られたくないものもあるんだから、ほっといてくれよ」
って抗議はするが、一切聞き入れてはもらえない。
 更に萌は料理研究部に属していることもあって腕前もかなりのもの。
 かてて加えて、学校の成績は全て上位クラスの位置をキープしている。
「でも、天は二物を与えずとはよく言ったものでさ。運動神経がないんじゃないかって言うくらいにスポーツはからっきし」
 大体は陽一も同意するが、はっきり言って二物どころの話しではない。三物も四物も与えられてるだろ、と思う。
 だが、運動は全体的にダメ。実際、球技大会でも足を引っ張る形になっていた。
 だが大半の男子生徒に取ってはアバタもエクボ。そういうところでも「人間味があっていい」だの「ドジなところも可愛い」だのと、評価が上がることがありこそすれ、下がることはまずない。
「ほら、母さんも彼女も学生時代から泳ぎは凄かったでしょ?」
 と、陽一の母は話しに軽く自慢を挟んでくる。
 2人は、学生時代、水泳のインターハイの常連でライバル関係にあったのだ。
 陽一は何度か当時の映像を見たことがある。2人とも、速さは当然ながら、フォームもキレイだったのが印象深い。
「まぁそれはいいんだけどぉ……」
 本当にどうでもいいんだろう。萌の母は真顔になって続ける。
「だからね、特に、私の娘なのにろくすっぽ泳げないっていうのは、やるせなくて。もう十数年抱えてる悩みなのよ」
「はぁ」
 陽一にはいまいち話が飲み込めなかったが、なんとなく感じるものはある。
「で、お願いなんだけどぉ……」
 萌の母は、ウィンクと共に、パチン! と音を立てて 勢い良く両手を合わせた。
「お願い! あの子に泳ぎを教えてあげて! この夏こそ、あの子コにはかなづちを克服させたいの!」
 と、懇願して見せた。
 これにはさすがに陽一も面食らった。全力で否定する。
「ムリ! 無理だよ!」
 しかし、心のどこかでは
(抵抗しても無駄だろうなあ)
 とか思ってはいた。
「あら、どうして? あんたそこいらの水泳部員より泳げるじゃないの?」
 陽一の母は問う。
「そうだけど、ってそういうことじゃなくて、俺はともかく、萌がOKするはずないよ。あいつ姉貴ぶって、基本的に俺に対して上から目線なんだよ?」
「ああ、それもそうね」
 陽一は、そう自分で言っておきながら、あっさり納得されたことにほんの少しだが悲しみを覚えた。まぁ、それはさておき。
「おばさんが教えてやればいいじゃん! 母娘なんだし」
 必死に抗議する陽一に、萌の母はさも残念そうに説明する。
「そうしたいのは山々なんだけどねぇ、夏ってほら、クリアランスがあるでしょ?」
「あ……」
 今日は珍しく日曜日に休んでいる萌の母だが、彼女は婦人衣料品店の店員として働いている。店の規模はそこそこなものなので、世間一般のデパートと同じく、夏はバーゲンの開催期間なのである。
「いや、でも……」
 たじろぐ陽一に追い打ちをかけるように萌の母は続ける。
「大好きなおいしいケーキ食べてぇ……」
「う……」
「高くておいしいフランス産のアールグレイ、飲んだわよねー?」
「や、それは……」
 迂闊だった。何か魂胆があるとわかっていたのに、ケーキには勝てなかったと、陽一は自分を呪った。
「引き受けてくれたら、もうひとついいものあげちゃうよん?」
「いいもの?」
 声を潜めて、且つ、いたずらっ子のような笑顔を浮かべて萌の母は言う。
「萌のプライベートムービーのディスク、欲しくない? あーんな姿やこーんな姿満載よ?」
「ちょ、おばさん!」
 萌のあられもない姿を思わず想像しそうになって慌てて打ち消す陽一。
「フフーン、顔赤いわよ?」
(なんつー意地悪な笑顔だ……)
 陽一は体中から力が抜けるのを感じた。企みに浮かぶ笑顔は最早悪党だ。
「大丈夫よ、陽ちゃん。ちゃーんとおばさんが説得してみせるから。ね?」
 そう懇願する萌の母を見ながら、陽一はさっきまで見ていた夢を思い出した。
 萌は向かいに住んでる幼馴染みで、通ってる学校も同じ空見高校。物心付いた頃からの付き合いだから、夢に出て来ること自体は珍しくもなんともない。だが、内容が内容だった。
 かなづちの萌と泳ぎで勝負するという変な夢。これ以上変な夢はないと断言できる。
 あれはどうやらこの現実の、逆夢のようなものだったらしい(いつもと逆方向を向いて寝ていたから観た夢なのか?)。
 となると、これ以上は抵抗できない気がする。
 意外と占いやジンクスのようなものに陽一は弱いのである。
「わかったよぉ……」
 陽一には観念して引き受けるという選択肢しか残ってはいなかった。
「ホント!? ありがとー!」
 萌の母は陽一に抱きついて喜んだ。
 彼女は嬉しいとすぐに人に抱きつくのが昔からの癖。中坊の頃は嫌で仕方なかった陽一だが、今はもう慣れた、と言うより諦めている。
「じゃあおばさん帰るから、そういうことで宜しくね、陽ちゃん」
「ああ、うん……」
 気の入っていない返事をしながら玄関先まで陽一は萌の母を送る。
「ああ、そうだ」
 萌の母は、ポーチでスニーカーを履きながらまたもあの笑顔で言う。
「ディスク、いつ持って来てあげようか?」
「要らないよっ!」
 陽一は思わず大声で拒否してしまった。
「キャハハ、照れちゃってえ!」
(ホント、この人には敵わない)
 陽一はそう痛感したのだった。

 かくて、次の休日。陽一と萌は都営プールに来ていた。
「良し」
「……あんまり良くない」
 二人はプールサイドで一通りの準備体操を終えた。
 が、陽一の「良」しと、萌の「良」くないとは意味合いが違う。
 萌のことだ。陽一はそこまで心配はしてなかったけど、ちゃんと競泳用の水着を用意してきていたことに対しての、「良」し、だ。
 おかげで目のやり場に困らなくて済む。もちろん、そんな思惑はおくびにも出さないが。
 一方の萌の「良」くないは、今日から始まるこの水泳レッスン全般に対してである。
「充分やっただろ」
「準備体操の話しじゃないよ〜」
 この期に及んでまだ抵抗する気らしい。
「はいはい。さ、ちゃんとキャップ被って。入るぞ」
「うぅ〜……」
 萌は腰まである長い髪を器用に束ねる。と、ここはあの日、陽一が見た夢と同じ。
 だけど、その他は少々異なる。
 夢の中では流麗だったはずだが、現実ではおぼつかない手つきでもぞもぞと髪を中に押し込むようにしてスイミングキャップを被る。
 その表情は今にも泣きだしそうだ。
(半泣きになんなよ)
 苦笑しながらも陽一は普通に、萌はおずおずと、水中に体を落とした。
「じゃあ、水に顔を付けて浮く練習からな?」
「え〜、そんなことしたら溺れちゃう……」
 よほど心細いのか、抗議する声も、語尾が消えかけている。
「あのな……。泳げるようになるために来たんだろ?」
「そう……です」
「じゃあ、はい」
 差し出した陽一の手をとる萌。
「離さないでね」
(またそんな声出して)
 呆れてばかりの陽一だが、それはそれ。
「わかってるって。ちゃんと手、つないでるから。いいか? 両脚で軽くジャンプするんだ。後ろに蹴り上げる感じな?」
 萌は小声でオウム返し。
「軽く後ろに蹴り上げる……」
「で、両腕はまっすぐ伸ばしてあごを引くんだ。そうしないとホントに溺れるぞ」
「お、脅かさないでよ〜」
「脅かしてるんじゃないよ。アドバイスだよ」
 陽一はまた思わず笑ってしまう。いい加減顔の筋肉が痛くなってきた。
「うぅ〜……」
 納得できないのか萌の声はうめきに変わった。
「じゃ、1、2の3でいくぞ」
 萌の表情が強張る。
「1、2の3!」
 その声を合図に、陽一の両手に萌の体重、もとい、萌の力が掛かり、その身体は水面に委ねられた。

 夕方。1日目の水泳レッスンが終わった。その帰り道。夕陽が眩しい。
 陽一は嫌々泳ぎを教わっている(ようにしか思えない)萌が不思議で、そのワケを問うた。
「それにしても、よく泳ぎを教わるのOKしたよな、萌。なんで?」
「え? なんでって……」
 ギクリと口ごもる萌。その表情に微かに焦りが見える。OKせざるを得ない状況に追い込まれたのだ。
 ……。
「萌、お母さんが頼んでおいてあげたから、陽ちゃんに泳ぎ、教わってきなさい」
「え〜、なにそれ突然!」
 予想もしてなかったことだ。そんな声が出ても無理はないだろう。
「あなたね、高校生にもなってロクに泳げないなんてみっともないと思わない? 高校生で泳げないなら一生泳げないわよ? それに、将来子供が出来たときのこと、考えてもみなさい。子供にはおろか、余所様にも示しがつかないでしょ?」
(なんで叱られてるの私?)
 そんな疑問が浮かんできたが、それよりも兎に角反論する。
「そんなことないもん、他のことで母親らしくするもん」
「何言ってんの。あなたお母さんの子でしょ? ちゃんと泳げなきゃダメ!」
 いつものほんわりした口調とは打って変わって、幾分厳しめの口調になっている母。
「そんなこと言われたって……、それお母さんのエゴよ」
 少し怯んでも、まだ抗う萌。
「あ、そう。あくまで逆らうつもりね」
「な、何よ」
 何か考えがあるのか、萌は警戒する。
 母は、1枚のディスクケースをひらひらと揺らして見せた。
「これ、何だか分かる?」
「何、そのディスク?」
「あなたのプライベートムービーよ。あーんな姿やこーんな姿が満載。陽ちゃん鼻血出して倒れちゃうかも」
 少し伏し目がちになる母だが、その口元には笑みが浮かんでいる。
「ちょっ! 酷ーい! 脅迫する気?」
「萌、いい? これはお母さんの愛のムチなの」
「自分を正当化するのやめてくれない? もう、お父さんも何とか言ってよ、娘の恥ずかしい姿、他人に見られてもいいの?」
 萌は傍らでビールを飲んでいる父に助けを求めた。が。
「んー、見られたくないなあ。見られたくないから教わりに行かなくちゃなあ」
「う……そう来たか」
 どうやら両親二人して画策したようだ。
 父は続ける。
「いや、でも陽一君だったら見られてもいいかなあ、お父さん的には。他人じゃないし」
「良くない〜」
「観念なさい」
「うー……」
 そのやり取りを思い出して思わずうめき声が出た。我に返った萌が「今」に戻ってきた。
「萌?」
「ん……なんでもない」
 萌の顔が赤い。夕陽のおかげだろうと陽一は思った。話を続ける。
「よくわからないけどさ、女子って、男に水着姿見られるの、恥ずかしいんじゃないの?」
「恥ずかしいよ? 特にわたしスタイル良くないから。胸もないし……」
 その小声の自虐に咄嗟に反応する陽一。
「え? そ、そんなことないと……」
 って、何言ってんだ、俺!? あせった陽一だが自分でもワケがわからない。
「え? 何?」
 だが、どうやら萌にははっきりとは聞こえていなかったらしい。助かったと、陽一は平静を装った。
「何も」
 ちょっと声が上ずってしまっが、萌はこれにも気が付かなかった。
「だから、余計に恥ずかしいけど……」
「けど?」
「お母さんとお父さん2人してさぁ……」
 そこまで言って、萌はまた顔を紅潮させた。
「な、何でもない!」
 何かをかき消すように、胸元で何度も手をブンブン振る。
「? 変なヤツだな。まぁ、とにかく、来週は少しは泳げるようにならないとな?」
 正直、泳ぐことには一切触れたくないのが今の心境だ。萌は思わずこう言ってしまった。
「あぁ、雨降んないかなぁ……」
「……屋内プールだから、雨、関係ないぞ?」
「解ってます!」
 そんな話をしながら、二人は帰り道を歩いた。

 萌の水泳のコーチを始めてから今日は何回目か。
 期末テストが近いから、今日を過ぎると当分ここには来られない。だから、と言うには乱暴だが、今日中に25メートルはクリアさせてやりたい。
 陽一はそう考えていた。
 しかし。
 少しは慣れてきたのか、ここ数回はそうでもなかったが今日は萌の表情が硬い。
「こないだ来たときにクロールの息継ぎは何とか出来るようになった」
「うん、なった」
「どうやるんだっけ?」
「えと、鼻から息を出して、口で息を吸う」
「そう。間違って鼻から吸うと苦しむことになるぞ?」
 陽一は満足そうな顔にはなったが緊張は保っている。
「うん、大丈夫」
 萌は自分を落ち着かせるためか、小さく頷く。
「今日は、試験じゃないけど、それに近いことするから」
「え? あ、うん……」
 萌の表情からは不安が消えず、一切変わらない。
「25メートル泳ぎきるんだ。でも無理はしちゃだめだぞ、辛くなったら脚をついていい。って言うか、立て。無茶すると溺れるぞ」
「解かった」
「それと、スピードは気にするな? 速く泳ぐことは目標じゃないからな」
「うん」
「俺は向こうで待ってるから」
「うん、待ってて」
 一つ一つ確かめ合うように言葉を交わし、陽一はスタート位置の反対側へ行く。
 萌は、プールに入る。
 ちなみに、空見高校の水泳の授業では、飛び込みは必須にはなってない。
 水泳大会は別だが、授業はその辺り寛大だったりする。萌と同じよう、泳げない生徒もいるからだ。
「行くぞ! よーい」
 パァーン!
 陽一が勢い良く両手を叩いた。それを合図に、萌がスタートした。
 滑り出しは順調だ。決してキレイじゃないフォームも、ある程度はまとまっていて悪くない。
 5メートル……10メートル。少しずつ陽一のいる位置に近付いてくる。
「いいぞ! そのまま、そのままのペースな!」
 陽一は自分の体に、夏の暑さとは違う熱がこもっているのを感じていた。
 萌の身体はついにプールの半分を越えた。
 まもなく、残りは5メートルというところ……3メートル、2メートル……そして!
 伸ばした手が、壁に届いた!
 「よしっ!」
 陽一は思わず両手でガッツポーズをした。
 萌は、まだプールの中で大きく肩で息をしながら、呆然と立ち尽くしている。
「やったじゃないか、萌!」
 自分でも不思議なほど嬉しさがこみあげてきた陽一は、思わずプールの中に脚から飛び込んだ。
「泳げた……。泳げたよ陽一君! 25メートル!」
「ちょっと、も、萌!?」
 現実を実感した萌は、嬉しさのあまり、陽一に抱き着いた。
「凄い! やったやった! 凄い陽一君!」
「いや、あの萌!? やったのは俺じゃなくて、萌なんだけど」
 余程嬉しかったんだろう。それからしばらく、萌は陽一に抱き着いたまま離れなかった。
 嬉しいと抱きつくのは母親の遺伝だろうか? DNAの成せる業なんだろうか?
(それにしても、萌に抱きつかれたのって何年振りだろう?)
 その感覚、ぬくもりが、小さい頃とは、全く違っていたことに陽一は気付いた。
 そして帰り道。
 萌はふやけていた。顔がだ。
(俺までふやけそうだ)
 陽一は心の中で苦笑する。
「泳いだんだね、私……。25メートルも」
 しみじみと言う。
「ほんの1月前までかなづちだったんだよ、私」
「知ってるっつーの」
 今度はその苦笑が顔にも出た。
「それがさー、フフッ、泳げちゃったんだよね〜。陽一君のおかげだね。ありがとう」
 いつもにも増してしおらしさを見せる萌。陽一は少し気恥しく思えて、照れ隠しに、萌の頭を髪がクシャクシャになるような少しだけ荒っぽい強さで撫でながら言う。
「萌がへこたれなかったからだよ。よくやった。俺は、ちょっと手伝っただけ」
「エヘヘ、そうかな?」
 もうすぐ期末テストが始まる。その前にひとつステップを上がれたことは、陽一にとっても嬉しいことだった。

3 7月
 その期末テスト。萌はいつも通りの好結果、陽一はいつも通りの凡結果だった……。
 そして夏休みに入った。
 陽一は以前から考えていた通り、特に何もしない日々を過ごしていた。
 さすがに昼を過ぎてもまだ寝ている、ということはなかったが、夏期講習に行くでもなく、バイトするでもなく、である。
「夏休みだものなあ。休まなきゃな―」
 エアコンの効いた部屋で、漫画を読みふけっていたり、ゲームをしたりして、遊んでばかりいる。
 が、意外と計画的ではある。午前中に(気が向けば)宿題に手を付ける。
 夏休みの宿題に、と出された課題は、終業式の日に、「やるもの」「やらないもの」にきっちり分けている。
 2年生の陽一は1年生の時に学んだ。少しくらい夏休みの宿題をサボっても、定期試験である程度の成績を残せば、最終的には進級に問題がない程度の単位は獲得できるのだという事を。
 良い悪いは別として、処世術は身についているようだ。
 だが、そんな好き勝手出来る時間にも、いつしか終わりはやってくる。
「陽一君、入るよ?」
 コン、コン、コンとノックをした後、萌が入ってきた。
「あ、また漫画ばっかり読んでるの」
「読書」
「何言ってんの。暇なんだったらちょっと付き合って?」
「どこに?」

 萌が陽一を連れ出した、その行先は、大型複合ショッピングセンターだ。
 このショッピングセンターは、大型スーパーを核として、ブティック、ミュージックショップ、書店などの専門店が出店しており、はては映画館、ミニ野外ステージまで併設されている。
 陽一は、そこそこ期待していつつもわざわざ劇場で観る必要はないだろうと思っていた映画に付き合い、女子特有の長い買い物に付き合い、気の済んだ萌と、少し早目の時間帯に帰宅出来そうな流れにほっとしていた矢先、 最後の一波乱に遭遇した。
「あ、陽一君見て見て、アレ!」
 萌は掲示板に貼られているポスターを嬉しそうに指差している。
「何だよ?」
「最強戦隊ムテキレンジャーショー! 主人公・出雲強正来る! だって」
 陽一のテンションが明らかに急降下する。
「子供向けだろ? あんなの観たいのかよ」
「あんなのって言い方ないよ。かっこいいんだよ、出雲強正役の俳優さん。まだ19歳なんだって」
 陽一も時々テレビなんかで見聞きする話。この手の特撮ヒーロー番組っていうのは、若手俳優の登竜門的な作品で、今は超売れっ子の俳優も、遡れば、新人時代に出演していたことがよくあると。
 そんなことを、陽一は思い出していた。
「この役者も将来そうなるのかなあ」
「え? 何?」
 陽一のつぶやきに反応した萌だが、陽一はそれについては何も言わない。
「見たいの? これ」
「そういうワケじゃないけど、ちょっと興味あるじゃない?」
「ちょっとはな」
 全然興味ないと言えば嘘になるか。子供向けの番組とは言え、本物の俳優を目の前で見られる機会はそうそうない。
「じゃ、決まり。行こ」
 萌は嬉々として陽一の腕を引いた。

 数分歩いて着いた特設ステージ。開演10分前のステージ前は既に黒山の人だかり。その殆どが親子連れ。
 だが、中には言葉では言い表せないような異様なオーラをまとった男も混じっていたりする。
「俺たちも偉そうなこと言えないんだけどさ……」
「ん? 何、陽一君?」
「いや、いい年した男共がいるなと思ってさ。あそことか……あそことか……」
 陽一がいくつか指差す先には、確かに異様な雰囲気を醸し出している男が何人かいる。
「あ、あぅ」
 萌が訳の分からないおかしな声を出した。
(何て声出してんだ、萌。)
 声もおかしいが表情もおかしい。陽一が覗き込んだその顔は明らかに引きつっている。
 まるで見てはいけないものを見てしまったように。
 萌は静かに陽一のシャツの袖口を掴んで、体を寄せた。
「何引いてんだよ?」
「な、何だか気持ち悪くて」
 品行方正で公明正大、と言えば大袈裟だが、陽一は萌にそういうイメージを少なからず持っている。
 人に対してあまりネガティブな発言をしないからだ。
 だけど今日は珍しくネガ発言をしただけでなく、ドン引きしている。怯えていると言ってもいいくらいだ。
 いつもなら「おいおい、いくらなんでも失礼だろ」とでも言ってやってからかうのが通常のパターンだが、それがシャレにならない気がした陽一は、萌の心の波が静まるまで、体を萌の思うように貸してやろうと思った。
 それはもちろん下心などではない。そこにあるのは、姉弟同様に育ってきた幼なじみへの思いやりであり、優しさだ。
 やがて、開演時間が訪れた。アトラクションが始まり、萌はいつしか平常心を取り戻していった。

 数十分後。
 ショーが終わった会場から離れようとした2人は、1人の少女に出くわした。
「あれ、時田!」
「あちゃ、見つかった」
 美奈はバツが悪そうに顔を歪める。
「どうしたの美奈ちゃん、こんなところで」
 萌が尋ねるが、
「んー、こんなところに、っていうのもなあ」
 と、なんだか歯切れが悪い。美奈は、高校生にもなってなぜ? というニュアンスがあるのがはっきりと感じ取れた。
「お二人さんかてこんなところにおるやん」
「そうだけど、美奈ちゃんがこういうの興味あるのかって思うと意外で。あの、気に障ったんならごめんなさい」
「意外なんはお互い様やって。三崎はともかく、萌は子供番組になんか興味ないと思っとった」
「どういう意味だ」
 苦笑する陽一。大体見たいと言い出したのは萌の方だというのに。
「深い意味ないて。さらっと流したって」
 言って、美奈はサッサッと、右手で払いのける仕草を2度繰り返す。
「まあこのテの特撮番組なんかはまだまだ市民権得てへんし、いい年してジャリ番見て喜ぶのはええ加減卒業せい、みたいな反応は至極当然やから。その辺は自覚もしてるし、別に気にしてへんよ。萌も気ィ使わんといてな」
「うん」
「ほんなら、折角こんなとこで会えたんやし、ちょっと歩きながら話そか」

 ショッピングセンターを離れて、3人は繁華街へと入ってきた。
「ウチ、演劇部に入ってんの知ってるやろ?」
 大々的に美奈が自ら喧伝しているわけではないが2年2組の生徒は全員知っている。
「知ってるよ。演劇部の看板女優だって」
「ハハッ、そんなワケないやん」
 萌はいつだったか、噂でそんな話を聞いたことがあったのだが。
「ウチはこのメガネと関西弁で目立ってるだけ。女優としては先輩たちのほうが全然力量が上やわ」
 実に楽しげに笑う。
「んで、当然って言うたら語弊あるかも知れへんけど、ウチ、将来は舞台女優になろうと思てんねん」
 何気なく言っている言葉だが、その思いが希望や願望ではなく、決意であることを感じさせる言葉だ。
「舞台女優になろう」なのだ。「舞台女優になりたい」ではなく。
「へえ、凄いな」
 陽一はただただ感心するほかない。
「凄いんはウチやなくて、そこに至るまでの道のりやけどね。今から想像してもめっちゃ険しそう。んでね、今日ウチがムテキレンジャーショー見てたんは、その辺に関わってくる話やねん」
「ああいうのに出たいって?」
「三崎、本気で言ってるんやったら天然やけど、ボケて言ってるんやったら度突くで?」
 顔は笑っているが美奈は内心でムッとしている。
「本気だって!」
 陽一にはボケたつもりは全くないが、違っているらしい。
「それやったらええけど。まぁあの手のアトラクションショーも悪くないけどね、大型アミューズメントでネズミとかアヒルなんかが踊ったりしてるのは、あれの超豪華版やから。でも、ウチが言いたいのはそういうことちゃうねん。 ヒーローショーってウチのルーツやねん」
「ルーツ?」
 陽一が興味深そうに反応した。
「そう。舞台女優目指し始めた切っ掛け」
 美奈は、陽一の顔を見て言う。
「三崎、子供の頃、ああいうヒーローショーみたいなのん、見に行ったことある?」
 陽一は記憶を手繰り寄せてみた。
「うーん、幼稚園とかの頃には時々行ってた気がするけど、細かいことは覚えてない」
「そっか。ちょっと思い出して欲しいねんけど、ショーの途中で怪人とか戦闘員とかに子供がさらわれて、舞台の上に連れて行かれる演出があんねんけど、分かる?」
「あ、分かる。テレビで面白ビデオみたいなの紹介する番組で見たことあるよ」
「それは良かった、話早いわ」
 陽一とは正反対に、となりの萌はちんぷんかんぷん。彼女の頭の上にはクエスチョンマークが見えるようだ。
「子供の時、親に連れられてデパートの屋上でやってたヒーローショーに行ったことがあって、そん時に、ウチ、戦闘員に連れ去られてん」
「舞台にまで上げられた、と?」
「そ。ああいうのって、男の子が観に行くもんやから女の子なんて珍しい言うか、目立つんやろうね。んでな、助けに来たんよ、ヒーローが。お約束やけどね」
「そうやって助けられて、ヒーローに憧れを持ったってこと?」
 陽一はそう思った。
 普通は陽一のように考えるだろうが、美奈の場合は違う。
「ブー、ちょっと違うねん。助けられた後、客席に戻ったワケやけど、そこからが良かった。助けられた、って経験もプラスに働いたんやろうけど、その後のシーンで「いたいけな子供たちを誘拐して悲しませるとは、許しておけん!」とか 「子供たちのためにもお前を倒す」とか「君たちの未来はこの俺が守る」とかかっこいいセリフのオンパレードなワケですよ。そのカッコ良さに、心を揺り動かされた。そん時に、演技で感動させることが出来るような人間に成ろうと思って、 本いっぱい読んで、映画いっぱい観て、中学生になったら演劇部に入って、今ココ、って感じ。って一方的に喋ってる感じやけど、付いてきてる?」
 一方的に熱く語りまくる美奈は一瞬だけ目の前の二人に意識が向いた。彼女の話を聴くのが精一杯だった2人は首を縦にぶんぶん振る。
「そういうワケで、ああいうアトラクションショーにも愛着があるというか、ウチの原点やから、あっこにおったねん」
 そこまで話したところで、美奈は足を止めた。
「ほな、ウチこっちから帰るから、ここでバイバイな?」
 美奈が笑って左手を上げる。
「うん。じゃあね」
 萌が手を振ろうとした時、美奈が言葉を続けた。
「ああそうそう、今日のこと、誰かに言うたらしばき倒したるからな。三崎もやで」
「言わねえよ」
 しっかりと陽一にも釘をさすと、美奈は振り向いて後ろ手に手を振りながら人込みに紛れていった。
「楽しそうだったね」
 美奈の姿が見えなくなって、萌が口を開いた。
「ああ、時田、活き活きしてた」
「陽一君もだよ」
「俺?」
 まさか自分も言われてるとは。陽一は思い切り虚を突かれた。
「楽しそうに聴いてたよ? ああいう、人に歴史あり、みたいな話好きだもんね、陽一君」
「まあな。雑誌のインタビュー記事とかな。普段って表面的なことしか知ることが出来ないだろ? 友達であっても、芸能人であっても。だけど、ああいうのって、その人にどういう過去があって、 今はどんなことを思って生きているのかとかある程度分かるからな」
「それにしては歴史はあまり得意じゃないよね?」
「るせ。そもそもな、見たことも話したこともない過去の人間のことや出来事なんか知ったって嬉しくないし、楽しくないからな。興味ないことの勉強でいい成績残せるワケないだろ。俺は今生きているんだし、未来に生きていくんだから」
「カッコイイ、陽一君」
 笑う萌。
「からかうなよ。ちょっと上から目線だしな、その言い方。姉貴ぶるな」
「だって陽一君はねえ……」
「ああはいはい、分かった分かった」
 聞いてられるかそんな話、という気分で萌の話を遮る陽一。
 そのまま2人も、それぞれの家へと歩き出した。


4 8月
 登校日。そんなものが何のためにあるのかという疑問は、生徒たち全員が多かれ少なかれ持っているものである。が、登校日であるからには、出席日数にも影響がある為、嫌々だろうが何だろうが登校はしておく方が良い。
そう考える生徒が大半なのもまた事実。
「たるい。暑い。うっとい」
 早雲はもう何度目になるかわからないような同じ言葉を不機嫌そうに口にした。
「うっといって……時田の関西弁がうつったか?」
 隣にいる陽一が茶化して突っ込む。
「大体なんでわざわざ体育館で朝礼なんだ。教室に校長の演説垂れ流しておきゃいいじゃん」
 不機嫌だから言葉遣いが悪い、と言うか、選ぶワードがいささか汚い。
 一通りの予定が終わり下校時刻となった。
 陽一と早雲はまばらに残っているクラスメイトを後に、教室を出た。
 時間はまだ11時にもなっていない。
「陽一、これからどうするよ?」
「そうだな……。あっさり帰るのはつまらないしな。ゲーセンかカラオケ、その辺が妥当か?」
 早雲に問われて答えた陽一だが、その自分で言った答えさえもつまらない。
「最近そのパターン多いしなあ。マンネリってやつだな」
 早雲のテンションも同じトーンだ。
「だよなあ」
「女の子引っ掛けに行くか」
 いいこと思い付いた! というテンションを無理やり作りながら、早雲が言った。
「1人で行ってこい」
「だよなあ」
 冷たいツッコミだが、陽一がそう言うことを早雲は分ってて言ったからそこに波風は立たない。
 ただ、不毛な会話で時間だけが過ぎていく。
「しゃあない、ワンパターンでもゲーセン……」
 と、陽一がそこまで言い掛けた時、一風変った光景が、彼の目に入ってきた。
 そこは、陽一たちの2年2組の教室からかなり離れた2年7組の教室。開け放たれた窓から見える教室の中、本を片手に動き回る数名の女子生徒。中には美奈の姿もあった。
「時田じゃん。演劇部だな、きっと」
 手にしているのは台本だろう。
 演劇部の稽古というと、陽一はセリフの応酬かと思っていた。だが、今日の彼女たちは殆どセリフを言わない。 そういう台本なのかとも思ったが、ぼそぼそと小声では何かを言っている。
 だが、時折、はっきりと大きな声でセリフを言うこともある。
「……でもね!」
 突然美奈の声が大きくなった。
 その臨場感に、陽一は圧倒された、と言うと少し大袈裟だが、少なからず衝撃を受けた。
 と、同時に、これなら、と納得させられたことがある。
 空見高校の演劇部は都内でも有数だと聞いていた。部員は全部で5名ほどだから多いほうではないが、顧問がプロとしての活動を平行して続けており、年に2回程度舞台にも立っているという。
 時間にしてほんの数十秒。美奈たちの稽古を見始めてから、その程度の短い時間しか経っていない。だが、陽一は、彼女たちの真剣な表情に、随分長く引き込まれているような感覚だった。
 そこへ……

 ピリリリリリ!

 呼び出し音が鳴り響いた。早雲のスマートフォンだ。早雲がポケットから取り出してディスプレイを見るとそこには……
「あちゃあ、親父だよ。はい!」
 早速電話に出る早雲。
「あ、まだ学校。陽一と一緒。……うん、今から帰ろうとしてたところ。はい。分かった」
 短い、要点だけの会話を終えると、早雲は溜め息をついた。
「稽古だってさ。帰んねえと」
 早雲の父親は、剣道場を営んでいて、早雲の剣道の師匠でもある。早雲は幼い頃から鍛えられ、今でも暇さえあれば、稽古を付けられる。なお、早雲は現在二段。父親は五段である。
「お前はどうする?」
「あ、俺も帰る」
「そっか。あ、忘れてた」
 早雲が何かを思い出した。
「ん? なんだ?」
「陽一、夏休み暇だよな」
「まあな」
「よし、俺のバイト手伝ってくれよ」
 はっきり言って唐突な話だ。
「バイト? 何の?」
「ライブハウス。俺ら高校生だから遅い時間までは働けないから、拘束4時間の実働2時間くらい」
「ほー」
 よく事態がよくわからない陽一はよくわからない相槌を打った。
「肉体労働じゃないし、難しいこともねえから。また連絡するよ。じゃあな!」
 早雲は足早にその場を立ち去る。
「え、ちょ、早雲!」
 OKもNGも答えを返せないまま、早雲の姿が曲がり角に消えた。
「ったく、しょうがねえ奴だなあ。いつの事かも言ってねえし」
 ため息交じりにそうつぶやいた陽一は、美奈たちがまだ芝居の稽古を続けている教室の中にちらりと目をやった。
(頑張れよ、時田)
 そう心の中で美奈に告げ、陽一はゆっくりと下足室に向かって歩き出した。

 そしてその日がやってきた。
 8月が終わろうかという、今月最後の土曜日。早雲に頼まれたのはライブハウススタッフのアルバイト。所謂ヘルプというやつだ。
「やっぱ引き受けるんじゃなかった」
 肉体労働ではないことは救いではある。と言ってもそれなりに大変だった。
 例え小さなライブハウスでも、そう、陽一が今いるこの小さなライブハウスにも、人気のあるバンドやアーティストは何組かいるもので、今日は丁度、そのバンドの一つが出演する日だった。
 ちなみに今日は、そのバンドを含め、3組のバンドが順繰りに出演し、最後に全員揃ってオーラスを迎える、オールスターライブのような形になっている。
 だから、こう忙しくなることが予測出来ていた故に、ヘルプを頼まれた訳で……。
 そもそも暇だったらヘルプなど必要ない。
「頭では解っていても、気持ちはなあ……」
 そう簡単には割り切れない。
「ぼやくなよ、いい加減」
 ブツクサ文句を言っているらしき友を見て、早雲はあからさまに不機嫌な顔になる。
「ここ、貸しスタジオもやってるんだろ? そっちのほうがまだましっぽいんだけど」
 このライブハウスは、貸しスタジオも併設されており、そちらもなかなかに好評らしい。
「しつこいぞ陽一」
 2組目のバンドの演奏が始まった。そのおかげで、人通りは極端に減少した。おかげでこうしてストレス発散を兼ねたダベリができる。
 仕事中に過度に大声で私語するのは、余りにも非常識だ。だが、少しだけなら……適度な無駄話なら、黙って働いて溜め込むよりは何千倍もイイ。
「そういう文句でも言えるうちはまだまだ大丈夫ってことだよな? ほれ」
「何?」
 早雲は大きな半透明の袋を差し出した。 「燃えるゴミ。然るべき場所に捨ててきてくれ。事務所裏から出ればすぐ解るから」
「こき使うなあ。いいけど」
 早雲から袋を手渡されて、陽一はゴミ置き場へと向かった。

 場所はすぐわかった。
「これでよし、かな?」
 ゴミ袋を降ろしたその場所には、「ゴミ収集日」と書かれた看板が貼ってある。
「にしても、夜でもまだまだ暑いなあ。早く中に……」
と、回れ右しようとした瞬間、陽一の目に一人の女性の姿が映った。
 月明りだけが頼りの暗さだが、綺麗にまとめたポニーテールの横顔は何とか認識できた。
 ここのスタッフかとも思ったがそれ以前に見かけた覚えがなくもない。
 挨拶くらしておくべきかとも思ったが、スタッフではないかも知れないし。
 もしかしたら出演者かも知れない。
 陽一はほんの数秒で、思考をフル回転させてみたが、改めて彼女の横顔を見てみると、声を掛けたりしないほうが良いように感じた。
 だが。
 空を見上げていた彼女は陽一の気配に気が付いて、その顔を見る。
「あ!」「あ」
 同じ言葉を同時に発した二人。お互いバツが悪い。
「ごめんなさい、勝手に入ってきちゃって……」
 彼女は謝った。今の言葉から察するにスタッフではないということだ。
「あぁ、ミュージシャンの方でしたか」
「ええ。でもダメですよね、すみません」
 彼女は大きく頭を下げた。
「構わないですよ。それより俺の方こそ……。休憩中だったんですよね、邪魔しちゃって……」
 それ以上は口にする必要はないと判断した陽一は、屋内に戻ることにした。
「それじゃあ、ごゆっくり」
 そう言って振り向いた陽一は、背中に、澄んだ嬉しげな声を聞いた。
「ありがとう!」

 戻った途端、陽一は早雲に知らされた。
「次、会場の整理と誘導な」
と早雲に促され、陽一はライブスペースへと入って行った。
 ついにステージは今日のオーラスを迎えたのだ。終演と同時に、客は一斉に帰ろうとするから、その整理のためにスタンバっておくのだ。
 会場のキャパシティは、客席がある時は30人、オールスタンディングの場合は、およそ50人となっている。
 ステージとギャラリーとの間隔は2メートル弱というところ。ギャラリーを囲むように、スタッフは観客席を向いて立つ形になる。
「適当な位置でイイから、あまり近付きすぎないようにな?」
 そんな指示を受けた陽一は、ステージに向かって右側の位置から、ふと壇上に目をやった。
 ステージの中央にはギターを携えたボーカル(ヤロー)、上手にベース(ヤロー)、奥にはドラマー(ヤロー)がそれぞれ位置している。その隙間を埋めるように、各バンドのメンバーが立ち並んでいる。
 そして、下手には……
(あ、さっきのひと……)
 事務所の裏にいた、あの女性だ。
(やっぱり出演者だったな)
 長い髪を白いリボンで結んで、ポニーテールにしている。思わず改めてその髪を凝視する。
 そのしっぽが背中まで掛かっているところを見ると、下ろせば腰まで届くだろう。
(萌とどっちが長いかなあ)
 ふと、陽一は萌のことを思い出した。萌も髪は長いが、髪を上げることは滅多にないからイメージがダブルことはない。
 ステージの上、控えめに佇む彼女の髪を束ねた白いリボンが、照明を照り返し、キラリと輝きを放つ。
「……じゃあ、次。最後に、今日のスペシャルサポートメンバーをご紹介します。オン・キーボード、霧山めぐみ嬢、拍手!」
 メインバンドのMC(ヤロー)に促されて、観客から彼女に拍手が送られた。
「霧山……めぐみ」
 何気なく、彼女のフルネームを呟いてみた陽一。
 だが、その声は拍手にかき消されて、誰も聴くことは出来ない。
 めぐみが軽快に鍵盤の上に指を走らせる。小刻みな音色が会場内に響き渡る。
「すげ……」
 時間にしてどれくらいの長さだったろうか?
 実際はほんの数秒、10秒にも満たなかったはずだが。
 陽一ははっきり言って、音楽については素人である。
 芸術の選択科目は音楽を専攻してはいるものの、音楽の授業と、臨場感あるライブハウスの演奏とでは雲泥の差がある。
 しかも、めぐみが奏でた今のメロディーは完全なアド・リブであり、本質的に異なっている気がする。
 素人の陽一がそう感じるのだ。聴く人が聴けば、専門的にかなり高度な解説だって出来るのだろうが、素人の陽一だからこその、言葉に出来ない感動があるのかも知れない。
 鍵盤からめぐみの指が離れた。
 一旦止んだ拍手が再び大きく響く。
その拍手に応え、めぐみがペコリとお辞儀すると、その音は更に大きさを増した。
「それじゃあ、最後の曲、聴いて下さい」
 その声で、陽一は自分がいる場所とその意味を思い出した。ステージの終わりは近付いているのだ。
(ああ、そうだそうだ)
 陽一は改めて、壇上ではなく、観客のほうに意識を傾けた。

「どうだった?」
 帰り道。人気の少なくなった繁華街を歩きながら早雲が訊いてきた。
「働いた感想?」
「それ含め」
「疲れたよ」
「そう言うと思ったよ。あんなにブーたれてたんだからな」
 ケタケタと早雲は笑う。
「でも、そこまで悪くはなかったかな」
 陽一がそう思ったのは彼女のことがあったからだ。どこかで会ったような気がしてもそれがいつ、どこでだったか思い出せない、というのもそうなんだが、他の感情もある。
「おお、そうかい」
「一応タダでライブを観れたからな」
 それも本当の気持ちだった。とにかく今日1日、と言うより、この数時間で色んな出来事があり過ぎて、陽一自身も少しパニックのような状態だった。
「いいバンド見つけたか?」
「え? いや、特には……」
 陽一は口ごもった。
 気になっていたのはバンド、と言うよりは、1人のプレイヤーだ。
 しかし陽一は、何となく、彼女のことを早雲に話すのはよそうと思った。
 自分でもよく解らないその感情……。それは、片思いの相手は親友にも知られたくない、そんな感覚に近かった。
「そっか。でもまあなんだ……」
 早雲は夜空を見上げた。
「また手伝ってくれよ。店長も喜んでたし。な?」
 何か照れくさいのか、早雲は陽一を見ようとしない。
(人と話す時は相手の顔を見ろ)
 口に出しはしなかったが、いつも自分が萌に言われていることと同じことを、陽一は思った。
「色々都合が合えばな」
 そんな返事をした陽一はこう考えていた。
(また彼女に会えるかも知れないしな)

「ただいま、お母さん」
「あら、お帰りなさい、めぐみ。意外と早かったのね?」
 めぐみが帰宅しリビングに入っていくと、ソファーに腰を掛けていた母親が顔をめぐみに向けて応えた。
 その手には、ハードカバーの書籍がある。
「大所帯だったから適当に切り上げて逃げてきた」
「あらそう。……ふ〜ん?」
 めぐみの顔を見て、母は娘の違和感に気付いた。
「ん? 何?」
「何かいいことあった?」
「え? 何で?」
 虚を突かれた形で一瞬ドキリとするめぐみ。だが一瞬で帰宅した時と同じ笑顔に戻った。
「あなた、さっきからニコニコしてるわよ。気が付いてないんだろうけど」
「そんなことないよ〜」
「あら、じゃあ鏡見てみれば?」
 めぐみはリビングの隅にある姿見で自分の顔を見てみた。確かに……
「……ニヤニヤしてる」
 母は「ニヤニヤ」ではなく「ニコニコ」と言った。それは彼女の親心が掛け値なしの感想として自然に口に出した言葉なのだが、めぐみは自身を過小評価しているきらいがあり、ネガティブな表現となる。
「あなた、いいこととか嬉しいこととかあると顔に出るのよねえ。そういうとこ、お父さんにそっくり、と言うかおんなじ」
「自分じゃ分からないわよ」
 めぐみは額装されて壁に掛けられている父の写真に目をやった。そしてすぐに母に顔を向ける。
「でも私、お母さんの娘でもあるんだからね?」
「そうね。いい子に育ってくれて嬉しいわ」
「何それ?」
 めぐみは、母の嬉しそうな笑顔に笑顔で返す。
「それよりおなかすいてるんじゃないの?」
「うん。凄くすいてる」
「でしょ、何か作ってあげる」
 めぐみの母は閉じた本をテーブルに置くと、小さく「よいしょ」と口にして、立ち上がった。
「じゃあ、その間にお風呂入ってくる」
「おっけい」
 軽いノリで返事すると、母親はキッチンへと入っていった。
 笑顔の理由を聞かれたらどう答えようか。そんな心配をしていためぐみだったが、それ以上聞かれることはなかった。
「笑ってる。私」
 リボンをほどいて髪をおろしためぐみは、もう一度姿見に映った自分の顔を見て、誰にも聞こえないようなボリュームでそう呟いた。
 その手には、ライブのステージの上にいた時とは違う、黄色いリボンがあった。

5 9月
 夏休みが終わり、2学期が始まった。
 始まったんだが、夏の暑さがその手を緩めることはない。
 5限目の予鈴が鳴って数分後、汗だくになりながら、陽一は廊下を歩いていた。なるべく陽射しを浴びないように、壁際まで下がっている。
 午後の授業が芸術選択科目の音楽から始まるために移動している最中だ。
 陽一の2年2組の教室は校舎の東館にあり、音楽室は西館にある。
 その通り道である廊下の窓は当然のように開いている。だが、その開け放たれた窓辺から風が吹き入ってくることは、残念ながらない。
「ったく……」
 陽一はイライラしながら、朝の一幕を思い出した。
 まだ8時にもなってなかったが、すでに暑さが我慢ならず、「暑い」と連呼していた陽一。
 そんな家からの出掛け際、陽一の母は言った。
「暑いと思うから暑い、暑いと思わなければ暑くない」
と。だが、陽一は思う。
(そんな根性論を振り回されたって、暑いもんは暑いんだよなあ)  冬の終わりが自分の誕生日であるから、かどうかは知らないが、陽一は暑さが非常に苦手である。
「涼みに行こう。それしかない」
 午後の授業もまだ始まっていないというのに、早くも帰る気満々だ。
 汗ばんだ手でドアをスライドさせると、ひんやりとした空気が溢れ出す。
「おー、涼しい」
 そう言った陽一の顔は腑抜けている。
「お、やっと来やがったな」
 待ち構えていたのか、音楽室に入ってきた陽一に気が付くと、早雲は声を張り上げた。
「来いよ、陽一」
「何だ?」
 早雲は冷房の効いた音楽室の真ん中にいる。
「いいもん見せてやるよ、ほら」
「あん?」
 早雲が近付いてきた陽一に手渡したのは、1枚のCDだった。ジャケットには「TENDERNESS」とある。
「誰だ、これ?」
「こないだのライブに出てたバンド。ボーカルの男、見覚えあるだろ?」
「あ、そう言えば……」
 あのステージでMCを務めていた男がジャケットに写っている。
「あのバンドのCDなんだけどな」
「お前、ヤローのバンドになんか興味あったのか?」
「そうじゃねえよ」
「否定すんな。気の毒だろ」
 そんな陽一のツッコミなどなかったかのように早雲は続ける。
「あのボーカルが重要なんじゃなくてだな……」
 早雲が要点を伝えようとしたその時、始業のチャイムが鳴った。
「チッ、時間か。陽一、またあとでな」
 2人は、それぞれ自分の席に向かった。

 やがて授業が終わり、生徒はそれぞれ、教室に戻るべく音楽室を出て行った。
 ちなみにこのあと、音楽室での授業は、どのクラスも行わないことになっている。
「陽一、ちょっと来いよ」
 他の生徒とは違い、早雲だけは出口ではなく、音楽室の最前列に立って、陽一を手招きした。
「さっきの続きなんだけどな?」
「CDか?」
「ああ、これだ」
 早雲はCDのケースを開いて、ブックレットを取り出した。
「奥付けにな……」
 パラパラとページをめくって、ブックレットの最後のページを陽一に見せる。
「彼女の名前が載ってる」
「彼女?」
 そこには「KEYBORD:MEGUMI KIRIYAMA(TRACK5,8)」と記載してある。
「あ、これって……」
「おう、あのライブに出てたキーボーディストだ」
 早雲はケースからディスクを取り出し、傍らのCDプレイヤーにセットしている。
 あの夜、気になったバンドは勿論、出演者に関しても早雲には何も明かさなかったはずだ。彼女は早雲のイチオシのミュージシャンなのだろうか?
 そんな疑問が湧き上がっていた陽一は、しげしげとブックレットを見つめていたが、ふと違和感に気付いた。
 全10曲のうち、彼女の名前があるのは、たったの2曲に過ぎないのだ。
「2曲だけなのか……」
 誰に言うでもなく呟いた陽一の声を、早雲は拾った。手を動かしながらも聞こえていたらしい。
「そうだ、2曲だけだ」
 再生ボタンを押した陽一は、ラジカセタイプのCDプレイヤーのスピーカー部分を陽一に向けた。
「時間ないから1曲のさわりだけな?」
 イントロ部分が聴こえてくる。

♪タラリラタラリラタラリラタラリラ……

 テンポが速く、かつ小刻みなメロディー。その音色は、電子音だが……
「もしかして、これ……」
「そう、彼女の演奏だ」
「打ち込みかと思った」
「だろ? 凄ぇよな!」
「ああ。でも、なんで2曲だけ?」
 それが陽一には引っ掛かっていた。
「彼女、そのバンドのメンバーじゃないんだよ」
「そうなんだ?」
「ライブの最後のMC、思い出してみろよ」
「え?」
 場内整理のために、スタンバイしていた時、MCが彼女を紹介した時のことを早雲は言っている。
 ただ、陽一は早雲の意図が見えずに首を捻った。
 細かいことまではいちいち覚えていない。
 あのシーンで覚えているのは、彼女の名前と、キーボード捌き、そして、照明を照り返して輝きを放った白いリボンだけ。
「なんだ、覚えてないのか? スペシャルサポートメンバーだって言ってたろ。彼女、あの日はあそこにサポートで入ってたんだ」
 早雲はCDプレイヤーを止めて蓋を開けると、ディスクを取り出し、そして、蓋を閉めた。
「プロなんだよ、一応」
 CDをケースにしまいながら、手を差し出す早雲。
「へえ……」
 陽一は感心の声を出して、ブックレットを早雲に手渡した。受け取ったブックレットを早雲はディスクケースにしまい込んだ。
「よし、じゃあ急ごうぜ、陽一」
 2人は、他に誰もいなくなった音楽室から、足早に出て行った。

 数日後のある土曜日、陽一が自分の部屋でくつろいでいると、陽一のスマホが鳴った。ディスプレイには早雲と表示されている。
 もちろん電話に出るには出るが、
「もしもし、三崎陽一は現在貴様に構っている時間も気力もありませんので……」
と機械的に話し出した。
『何言ってんだお前?』
 だがそんなことはものともせず、早雲は途中で強引にぶった切った。
「お前からの電話はいつも嫌な予感しかしないんだ」
『鋭いな……じゃねえよ! 頼まれてくれ!』
 早雲に見えるはずもないが、陽一は何とも言えない、しかめっ面をしている。
『今日の夜、暇か? 暇だよな? 暇に決まってるよな?!』
「お前ムカつく」
 とは言ったものの、反論できない。確かに暇だ。
『俺、今日スタジオのほうのシフトなんだけどさ、急用が出来て入れなくなっちまったんだよ。代わりに入ってくれ、頼む!』
「気が進まないんだけど」
『なんだよ、前に手伝ってくれた時、都合が合えば手伝ってくれるって言ってたじゃないか』
 そんなことを言った覚えはある。あるが……
「都合っていうのはメンタルのことも含めてなんだよ」
 陽一は自分でも思う。メンタルなんて言葉は、普通の高校生は使わないだろう。自分だって、中学生時代に陸上競技をしていなければ使いはしなかったはずだ。
 その言葉を使ってしまうのは、中学時代に陸上部で中距離ランナーとして活動していた過去の自分から脱却できていないようで、どうにも気に入らない。
『店長にも話は付けてるし、スタジオはハウスより楽だから、な!?』
「……理由は?」
『え?』
「シフトに入れない理由だよ」
 陽一は、実はそれが一番気になっている。
『一身上の都合じゃ駄目か?』
 逃げようとする早雲に
「言えないのかよ」
 追及の手は緩めない。
『プライベートなことなんだけど……、まあいいや。ばあちゃんが亡くなった』
「え?」
 陽一からするとかなり意外だった。一瞬悪い冗談かと思ったが、声のトーンからして嘘ではないようだ。
『俺、小さい頃ばあちゃん子でさ、叔父や叔母とはほとんど話しもしなかったんだけど、ばあちゃんにだけは懐いてたんだ』
「そうなんだ」
『ああ。で、まあ、さすがにもう疎遠になってたんだけど、お通夜と葬式には出ないと、って言うか出たいんだよ。だから、さ』
「解った。行くよ」
 そういうことなら、無下に断るわけにもいかない。
『マジでか!? 悪いな。夕方の6時から10時までだから。そのうち埋め合わせするよ! じゃ頼んだ!』
 一方的に通話は切れた。
「仕方ない、な」
 陽一は小さく溜め息を吐くと、スマホをベッドの上に放り投げた。

 その夜、陽一は、店長は言うに及ばず、他のスタッフからも暖かく迎え入れられた。
 ここで働くのは今日が初めてではない、ということもあるだろうが、それだけではない。
 このスタジオ、そしてライブハウスの経営者たる元ミュージシャンの店長が、全ての従業員が気分良く働ける職場、というものを標榜している。それが大きな要因だろう。
 その意気に、全ての従業員が感銘と影響を受けているから、店内の雰囲気も非常によいものになっている。
 なお、店長は誰もが異口同音に「フランクな人間」だと評する人物である。
 今日の陽一の仕事は、接客。
 スタジオにはバンドはもちろん、個人練習の客まで、プロ、セミプロ、アマチュア問わず、多くの利用客が訪れる。
 こと、今日は土曜日で、カレンダー通りの生活をしている人たちや、企業などの世間一般は、明日も休日。
 それを見込んで夜遅くまで、あるいは夜明けまで一晩中練習する人たちもいる。
 そんな人たち、そして予約を入れていた客への応対が今日の陽一の主な業務。
 そして、予約客の確認をPC上で行うのも陽一の今日の仕事の一つだったりするのだが……。
「パソコンなんて持ってないからなあ」
 下手に触って、トラブルになるのも怖いから、最低限のことしかしない。
 カタッ……カタッ……と大きな間を置いて、キーボードのエンターキーを叩く。
「ネットカフェとか行って練習するか、タイピング」
 そんなことをぼんやり考えながらディスプレイに見入っていた陽一は、
「あの……こんばんは」
と、声を掛けられて、ハッとした。
 顔を上げた陽一の目に映ったのは、黄色いリボンで髪をポニーテールに束ねた……
(霧山、めぐみ……)
「いいですか?」
 予約客の確認がまだ済んでいなかった陽一は、思いもよらぬ来客に呆然としてしまった。
「あの?」
 動かない陽一に、めぐみは首を傾げながら言葉を継ぐ。
「は、はい、いらっしゃいませ!」
 その仕種が目に入ってようやく陽一は我に返った。
「8時から予約していた霧山です」
「しょ、少々お待ち下さいっ」
 慌てながらPCのキーボードをいて、予約画面で確認する。
「今日は安藤君じゃないんですね」
 何気なく陽一に話し掛けるめぐみ。本人はそのつもりだったが、少し高揚しているのが、彼女自身にも分かった。
 だがそんなことは陽一に分るはずもなかった。
「今日は早雲、いや、安藤は急用が出来たとかで……」
 陽一はPCのディスプレイから目を離さない、と言うよりも離せないでいた。
 PCの操作に慎重になっているから、そして、めぐみが目の前にいるという緊張すべき状況がそうさせる。
 マウスのホイールを回転させて画面をスクロールさせると、霧山めぐみの名前があった。
「えと、Cスタジオ2時間ですね。場所は……」
 マニュアルに則ってスタジオの位置を伝えようとした陽一だったが、それは、
「1階の突き当たり、ですよね?」
 と、静かな笑顔で、先回りされた。
「はい。ですよね、常連さんですものね」
 苦笑いを浮かべる陽一。
 PCのディスプレイには、これまでの予約回数が表示されており、めぐみの予約回数は、3ケタに届こうとしている。しかも大半がそのCスタジオだ。説明されなくても分かって当然、と言うか、陽一よりも詳しいだろう。
「ええ、まあ……。それじゃあ、お借りします」
 めぐみは、床に置いていたキーボードの入ったソフトケースを持ち上げた。
「ごゆっくりどうぞ」
 陽一は歩き出した彼女の背中に言葉を投げた。
(2時間しかないのにごゆっくりもないだろ、何言ってんだ俺は)
 頓珍漢なことを言ってしまった自分が少し情けなく思えた陽一だった。
 そして、頓珍漢なことを言っていると思ったのはめぐみも同じで、思わずクスリと笑いをこぼした。陽一は気付かなかったが。
 そんなほんの短い時間の交流だったが、実は大きな意味があった。のだが、そのことを二人は知らずに過ごしていくことになる……。

「にしてもまいったな」
 時間は午後10時30分をまわったところ。こんな時間に店から出ることになったのは残業していたからではない。
 あまりにもアットホームな職場で、仕事が終わってもすぐには解放してもらえず、他のスタッフのお茶に付き合っていたのだった。
「なかなか帰らせてもらえないんだもんなぁ……」
 苦笑いでそう呟くと、陽一は身体を大きく伸ばした。
「う〜……んっ」
 と、そこに、さっきスタジオで見たポニーテールが視界に入った。
 彼女もこっちに気付いたようだ。陽一のほうに歩いて来る。
「お疲れ様でした」
「あ、いえ、こちらこそ、お疲れ様でした」
「終わったんですか、お仕事」
「ええ。なんだか、俺の年だと10時までしか働けないらしいです、そちらは?」
「ファストフードで軽く……。おなか空いちゃって」
 めぐみは照れ笑いを浮かべた。
「あ、良かったら途中まででも一緒に帰りませんか?」
 陽一は、思ってもみなかったお誘いを受け、一瞬躊躇してしまった。
 その反応が、めぐみを不安にさせる。
「嫌、かな?」
 首を傾げて尋ねるめぐみ。
 無論、陽一にネガティブな感情はなかった。ただ単に驚いただけなのだ。断る理由は何もない。と言うより、色々と話を聴かせて欲しいと思っていた。
「そんなことないですよ。俺で良ければ……」
 安堵しためぐみは、
「良かった。断られると寂しいもんね?」
 そう言ってウインクする。そんなめぐみに、陽一はドキリとした。さっきとはまた違った驚き。
(か、可愛い……)
「じゃあ行きましょうか」
 陽一がそんな衝撃に翻弄されていることに気付かないめぐみは、陽一を促すようにそう言った。2人は並んで歩き出した。
「あなたも高校生なんですか?」
 さっき陽一が何気なく言った「俺の年だと10時までしか働けない」という言葉をしっかり覚えていためぐみは、陽一に問い掛けた。
「はい、高校2年です」
 別に学年は訊かれてはいないのだがそう答える陽一。
「そっか。じゃあ私より学年は下だね。一つしか変らないけど」
「え!? マジですか!?」
 陽一は思わず大声を上げた。
「そ、そんなにそんなに驚くこと?」
「や、でもプロのミュージシャンだって聞きましたよ?」
「誰からぁ? 大袈裟だよぉ」
「早雲……安藤からですけど」
「ファーストネームで呼んでるの? 友達なんだ?」
「悪友ですよ」
 苦笑で反論、と言うよりも、訂正する。
「そう。仕方ないなあ、あの子は」
 困った表情の言葉に溜め息が混じる。
「あのね、プロ、なんて言うほどものじゃないわ。お手伝い程度のことしかしてないもの」
 ギャランティをもらって音楽の活動をするという意味ではプロなのかも知れないが、自分のCDを出しているわけではないし、ミュージシャンとしての収入で生活しているわけでもない。
「アルバイトと言うか、セミプロと言うか、そんなところよ」
 人間、自身の感覚と他人の感覚には、ズレと言うと大袈裟だが、そういう、違いはある。いや、寧ろ違っていて当然だ。
「そうなんですか。だけど……」
「ん?」
「この前ライブで演奏してるの見ましたけど、あのテクニックのレベルの高さは、素人の俺でも解りますよ。楽器をあんなふうに弾けるなんて、凄い憧れます」
「……そう」
 照れ笑いを浮かべるめぐみに、この際だからと、もっと色々訊こうと陽一は思った。訊きたくなった。
「じゃあ、将来はプロになるんですか?」
 それは当たり前と言えば当たり前かも知れない。
 今でもセミプロとして活動しているのであれば、その先を見据えているだろう。
「知りたい?」
 めぐみは首を傾げて逆に訊き返した。
「え?」
 はっきり言って無警戒だった。知りたいと言えば知りたいが……。
「どうしても知りたいワケじゃないですけど……」
 どう答えるべきか悩みつつも正直に言ってみたが、自分でもスマートな答えじゃないと思った。
「ごめん、意地悪な質問返しだったよね」
「いえ……」
 まさか謝られるとは。陽一が予想していない展開が続く。
「私が知りたい……かな?」
「それってどういう?」
「もしタイムマシンがあったら未来に行って、プロになってるかどうか見てみたい」
「決めあぐねてるってことですか?」
「色々事情があってね」
 出来ればその事情というヤツもどんなものだか知りたいが、これ以上踏み込むのは、さすがにプライベートなこと過ぎる。失礼だ。
「どうするんだろうね、私……」
 めぐみは神妙な面持ちになった。が、空気が重くなったことにすぐに気が付いた。
「あ、ごめん。なんか暗くなっちゃったね」
 めぐみは微笑んだ。
 そこで一旦会話が途切れた。
 陽一はこの無言の時間を嫌って何か話そうと思ったが、その何かを思い付かない。
 そこへ、今度もめぐみのほうが先に口を開いた。
「そう言えば、私、君の名前聞いてなかったね」
「あ、そう言えば」
 間抜けな話だ。
「俺、三崎陽一っていいます。何とか岬の岬じゃなくって……」
「三つの崎?」
「はい」
「ふーん……。ね? 根掘り葉掘り訊いてもいい?」
「え? いいですけど、怖いなあ」
 めぐみは人にモノを尋ねる時に首を傾げるのが癖だが、その顔立ちと相俟ってチャーミングだ。
 もちろん癖だから計算しているワケではないが、大抵の男供は抗えないだろう。
「彼女さんは?」
「いませんよ、そんなの」
「あらそう、モテそうなのに。コクられてもフッてるの?」
「違いますよ! コクられたことなんてありませんから」
「ふーん……。じゃあ、誕生日は?」
「2月10日です」
「あ、じゃあまだ16歳なんだ。ちなみに私の誕生日は10月29日。よろしくね」
「は、はあ……」
「ちょっと。迷惑そうな顔しない」
「え? そんな顔してました?」
「うん。なんてね、冗談よ」
 そんな情報交換会のような帰り道は、30分ほどで幕を閉じた。
 だが、数日後、陽一は自分が思わない場所でめぐみと再会を果たすことになる。