ここでは、僕が創った小説を公開しています。

つまらない男のつぶやき

解説
▼以前運営していたブログ「ブルーな男の開運祈願」に不定期で連載していたネット小説に加筆、修正を施したもの。ブログ閉鎖の直前で全2章+エピローグ (プロローグはないけど・笑)を以って一応完結。気が向けば続編も書くかも、という感じ。

主なキャラクター紹介
●林原浩一郎
 本作の主人公。35歳。図書館に非常勤扱いで勤務中。無口で不器用だが思いやりのある男。いわゆる「いいヤツ」。一人暮らし。当然独り者。
●七月夏希
 浩一郎の同僚で、図書館のアイドル的存在。浩一郎に対してかなり良い印象を持っているようだが……。華奢な体型をしている。28歳。
●鷹見凛
 新しく浩一郎の図書館に勤務するようになった女性。年齢は30代前半。そこはかとなく大人の女性の色気がある。本編では語られていないが離婚暦あり。
●栗岡卓
 浩一郎の同僚。典型的なアニメオタクで趣味はメイド喫茶めぐり。夏希に気がある。本編には苗字しか出ない。
●森野こずえ
 浩一郎が高校時代に交際していた女性。図書室の司書係で1年後輩だった。

第1章
第2章
プロローグのないエピローグ

第1章

 俺、林原浩一郎。ひらがなにすると「はやしばらこういちろう」と、ちと長い。
 35歳で、独身。仕事は、図書館で働いている。大きなトコじゃない。町の小さい図書館だ。しかも非常勤、というか、契約社員というか、そういう立場。いい年だが、 まだまだ遊びたい、と言うか、自由な時間が欲しいんだ。ガキみたいな言い分だけど、そういう考えなんだからしょうがないぜ。
 ちなみに恋人、どころか好きなオンナはいない。ついでに言うと友達もあまりいない。俺はこう見えても(文字だけだから何も見えないが)、気を使う人間で、 俺なんかと遊んでもつまらないんじゃないかとか思ってしまう。だからと言って、楽しくしようと色々考えるのも億劫で、得意じゃない。基本的にマイペースだから、 自分に合わせてくれる人でなければ、なかなか付き合うのは難しい。だから、本当に俺のことを理解してくれる人間としか付き合えない。なんだかんだ言って、 要するにめんどくさいんだが。
 それにしても、図書館ってトコはいい。静かだ。仕事だって難しいことなんてありゃしないし、職場の人間は上司も同期も後輩も付かず離れず。嫌な人もいない。 仕事がヒマなら読む本はいくらでもあるから退屈はしない。量は少ないが、DVDもあって、休み時間には時々見てる。本も好きだけど、映画も好きなんだ。
 しかしまあ、なんだな。最近は単調な日が続いてて、ちょっと退屈ではある。なんか新しいことでも始めてみるか。
 と、考えてはみたものの、何を始めるか。この年では新しいことと言っても数は限られてくる。ハードなスポーツは体がついていかないし、やたらと頭を使うことも避けたい、 と言うかできない。俺、頭悪いからな。
 そう言えば、昔やりたかったことってなんだろう? それを今から始めてみるっていうのはどうだ。最初の最初は……、そうだ、野球選手になりたかったんだ。 草野球でも始めるかな? けど、いきなり始めるには、ちょっと制約が多いなあ。さっきも言ったけど、俺は友達いないからな。あと。やるなら監督兼業で、ってことになるな。 そういう立場にいないと、遠慮してしまうからな。ホント、厄介な性格だね、我ながら。っておい。だからスポーツはだめなんだってばよ。バッティングセンターでカンカン やるのがせいぜいだよなあ。それは今でも時々やってるし。
 次になりたかったのは、漫画家だな。よし、イラストを始めよう、ってバカか俺は。いい年したおっさんがマンガなんか描こうって言うのか? オタクじゃあるまいし。
 なんか選択肢が殆どないよなあ。どうしたもんか。
 あ、そうそう、忘れていたが、俺は今仕事中だ。もちろん図書館でだ。だけど今日は雨が降ってるし平日だしで、あまり客がいない(商売してるんじゃないから厳密には 客じゃないが)。はっきり言ってヒマだから、こういう風にもの思いに耽っているワケだ。で、俺の目の前にあるのは男性誌、とは言ってもいやらしい写真とかはないぞ。 ファッションやら流行やら取り上げてる雑誌だ。大体、図書館に「そんなもの」があるわけないだろ。
 その雑誌を何気なくパラパラとめくっているわけだがどうにもヒントになるような記事がなくてまいっている。そんな感じでいると、ボーっとしているように見えたのか、 同僚が声を掛けてきた。
「林原さん」
「はい?」
 俺に声をかけたのは七月夏希さん。冗談みたいな名前だが本名だ。もちろん女性。身長は160センチくらい。ちょっと細過ぎるくらいのボディライン。 ノンフレームのメガネをかけている。年は28歳、だったか。この図書館の看板娘、と言われているとかいないとか。確かに可愛らしい感じはするのだが。
「なんかボーっとしてません?」
「んー? ボーっとしてるんじゃないよ。考え事だ」
「それをボーっとしてるって言うんですよ?」
「ボーっとしてるって言うのは、なんにも考えてないことを指すんじゃないかと思うんだけど」
「相変わらず屁理屈が多いですね」
 苦笑しながら、彼女は俺の横に座る。
「ちょっとお誘いなんですけど、今晩ヒマですか?」
 どう答えるべきかちょっと迷った。ヒマではあるのだけれど。
「どうして?」
「たまには遊びに行きません? 夕方には雨も上がるらしいし」
「どこに行くの?」
「映画のチケットがあるんです。2枚。友達と行く予定だったんですけど、キャンセルになっちゃって……」
「彼氏?」
「ち、違いますよ、女のコです」
 慌てて誤魔化してるように見える。怪しい。
「で、なんで俺を誘うわけ? 七月さんくらいの年のヤツ誘えばいいじゃん。俺みたいなおっさんじゃなくてさ」
「嫌なんですか? 私と遊びに行くの」
「イヤ、そうじゃないけど……」
「林原さん、映画好きじゃないですか。同じ行くんだったら、映画が好きな人の方がいいと思って……」
「でも七月さんと遊びに行くと、七月さんのファンに妬まれちゃうな、ははは」
「シーッ!」
 おっと、いけない。思わず大声で笑ってしまった。館内の人たちから熱い注目を浴びてしまった。
 それはさておき、そこまで言われちゃかなわないな。断る理由もないし。
「いいよ、行こうか?」
「わーい、やった♪ じゃあ、またあとで」
 七月さんはそりゃもう嬉しそうに持ち場に戻っていった。彼女、もしかして俺に気が……あるワケないか。
 しかし、女性と2人で出かけるなんて何年ぶりだろう? 前に彼女に振られたのは……、あーやめやめ、アホらしい。そんな過去を振り返って何になるって言うんだ。 前向こ。もちろん気持ちのことを言ってるんだが、体の向きも彼女が去っていった方向から前に戻したときに、

 ぐううう〜。

 と、盛大な音が腹の底から響いた。また館内の人たちの熱い注目が集まった。これは不可抗力なんで、堪忍して欲しい。
「ハラ減った。そろそろメシの時間か。」
 自慢じゃないが、俺は一人で暮らしていて、自炊している。だから、昼飯は大抵、自分で作った弁当だ。特別美味くはない、と思っている。冷凍食品が多いから、 余程ヘタな調理をしない限りは、普通に食える。不味くはないから特別に不満もない。強いて不満を挙げるとすれば、自分で作るのはめんどくさい、ってことだけだ。でも、 エンゲル係数を下げるためには、なるべく倹約しなければいけないからな。
「休憩入りまーす」
 この職場は時間差で休憩を取ることになっている。誰に言うでもなく一言断りを入れて仕事席を立ち、奥の事務室の自分の席に戻る。
 机の下に置いてあるデイバッグからランチボックスを取り出す。って、らんちぼっくすぅ? 弁当箱でいいんだよ、弁当箱で。
 しっかしまあ、この弁当箱を見るたびに切ない気持ちになるのはなぜだろう? いや、理由は分かってるんだけど……。
「あら、今日も愛妻弁当?」
 オバ……もとい……年配の女性事務員が馴れ馴れしく、いや、親しげに声を掛けてきた。
「嫌だなあ、そんなんじゃないっすよ」
 俺は顔は笑いながら、腹の中では怒りが燃えたぎっている。
(このオバハンは、ったく。)
 思わず小声で毒づく。
「いいなあ、林原さん、お弁当」
 隣の席の栗岡ってヤロウが俺の弁当を羨ましげに見ている。やせ細った薄白い顔にロンゲ、異様なオーラを放っている男だ。なんでも、アニメのキャラクターに異常に 執着しているらしい。休みの日にはメイド喫茶だかコスプレ喫茶だかに行っているらしいという話も聞く。俺にはわからん世界だが。
「栗岡君も、自分で作ってみたら?」
 言いながらも目はヤツには向けずに弁当箱のふたを開く。
「そ、そういうんじゃなくて。す、好きな人に作ってもらえるって、羨ましいなと……」
 どもりながら言うが、その言葉の語尾がフェードアウトしていって、何を言っているか最後まで聞き取れない。
 そんあことより人の話を聞いていなかったのか? 愛妻弁当じゃないって今言ったトコだろ。
 と言ってやりたかったが何も言わずにおいた。ネットの掲示板のように、荒らしはスルーに限る。これ、重要。
 そして俺はi−Podのヘッドホンを耳に入れる。基本的な俺の飯を食うときのスタイルだ。飯くらい好きに食いたいからな。なるべく邪魔されないように音楽を聴く。 ちなみに入っているのは全てJ−POPだが、流行の音楽はあまりない。あくまで、自分に合った曲を選曲して詰め込んでいる。
「いただきます」
 人前で食事をするときだけは言うこの言葉を以って、本当の昼休憩が始まる。

 午後の仕事も特に問題なく終了。俺は昼間の約束のとおり、七月さんと映画を観に行くため、図書館の正門の前で待っている。
 彼女が言っていた通り、とうに雨は上がっていた。それどころか、雲の隙間からは夕陽の光が射している。この分だと明日は晴れそうだ。
「林原さん」
 七月さんが少し急ぎながら、こっちにやって来た。
「ゴメンなさい、待たせちゃって」
「いいよ、大丈夫。そんなに待ってないから」
 ありきたりな言葉を交わしながら、俺たちは駅へ向かって歩き出した。
「良かったですね、雨上がって」
「そうだね」
 何かもっと気の利いた話は出来ないのか? と自分でも思うが、さっきも言ったとおりそんなことを考えるのは億劫で、すぐに考えるのをやめてしまう。この辺りに、 人間としての欠陥があるよな、俺は。
 この図書館は、閑静な住宅街の中央に位置していて、この時間でも人通りは多いほうじゃない。会社帰りのサラリーマンやOLと思しき人がちらほらといる程度。俺たちは、 特に会話もせずに歩く。まだ乾ききってない舗道を踏む靴音だけが聞こえている、そんな感じだ。
 俺は昔から「何を考えているのか分からない」だの「何をしでかすか分からない」だの言われることがままある。俺の左側を歩くこのコも、俺のことをそんな風に 思っているのだろうか?
「林原さん、ちょっと訊いていいですか?」
「え?」
 七月さんが不意に声を掛けてきて少しビックリしたけど、そんな素振りは見せずに答える。が、ばれているかもな。
「何?」
「林原さんって、昔からあまり喋らない人なんですか?」
 直球だな、おい。
「んん。そうだな。ガキのころから大人しいとかよく言われてた」
「そうなんですか」
「つまらない?」
「あ、いえ、そういうワケじゃないんです。無口な人、嫌いじゃないですし」
 何だ? 何が言いたいんだ? 何か意味深な発言。いやいや、変な期待はしちゃいけない。
 男は基本、バカでガキで、俺は特にその典型だ。もしかして俺のことを想ってくれてるのか? なんて妙な誤解は、後で痛い思いをする元だ。変な期待はしない方がいい。 それに、もう色恋ってヤツには懲りたんだ。今まで何人か好きになったし、付き合ったりもしたけど、結局現状はこのとおり一人身。誰かさんの歌にもあるが、俺の場合は本当に、 もう恋なんてしない、って決めたからな。誘われたときにどう答えようか困った理由はそれなんだ。

 最初に女の子を好きになったのは、中学2年、14歳の時だった。相手は同級生の川中由貴江。真面目なんだか不真面目なんだか分からない、曖昧な性格の子だったけど、 可愛い女の子だった。好きなんだと意識してから、半年ほどして告白したが、好きな男がいるからって、振られた。それで諦めたつもりだった。でも自分でも驚くほど根が 深かったらしく、しばらくは、なんと言うか、吹っ切れずにウジウジしていた。
 進級してしばらく経った頃、その年から同級になったやつらから川中との間に起こったことを根掘り葉掘り聞かれた。嘘は言わなかったけど、後になって考えると言わなくて いい事まで言っていたようだ。
 しかも俺が言ったことに尾ひれが付いたようで、それが川中の耳にも入り、川中は激怒した。川中とその友人たちに呼び出され、責められた。自分が悪いんだと観念した俺は、 素直に詫びた。
 もしかすると、それがトラウマになって、人と話すことができない性格になってしまっているのだろうか、と言う気もする。仮にそうだとしても自業自得ではあるのだが。
 そんなことを考えているうちに、駅に着いた。
「切符買ってくるよ」
 一言告げて券売機へ。券売機の前について、ふと気が付いた。踵を返し、彼女の元へ戻る。
「どこまで行くんだっけ?」
「浪川駅です」
 浪川駅はここから二駅先だ。俺は、券売機で該当する切符を買う。
「はい」
 彼女の元に戻って、切符を渡す。
「ありがとうございます」
 俺は特に意識していないが、こういうさりげない事が女性には紳士的に見えるらしい。と言うことを知ったのは、もっと後のことだけど。
 浪川駅の改札を出た真正面に、シネコンがある。このシネコンの中ならどの劇場でも入場できるというチケットを持っているというのが、七月さんのハナシ。ラインナップは、 SF、恋愛モノ、子供向けのアニメ、芸術性の高い邦画と色々ある。
「何か目当てってあるの?」
 誘われたのは俺のほうだから、俺には選択権はない。
「あ、実は、コレなんです」
 そう言って七月さんが指差したのは、ハリウッドの最新作のSFだ。
「SUPER HERO? 恋愛モノとかだと思ってたのに、七月さんって、なんか意外だね?」
「実は、この映画に私の好きな俳優が出てるんです」
「あ、なるほど」
『SUPER HERO』の主演は、アメリカで5本の指に入るイケメン俳優と言われている、リチャード・ウェルズだ。明らかに俺よりもオトコマエ。というか、 俺と比べてどうする。
 ちなみにこの映画のストーリーは、ヒーローと言われる人間ほど胡散臭いやつはいない、と普段から思っている男が、ひょんなことから超人的な能力を手に入れて、 正義のヒーローとなって戦う、というSFだが、コメディ色がかなり強いらしく、それでいて感動的なシーンもふんだんに盛り込まれているようだ。こないだたまたま目にした 映画雑誌に書いてあった。
 通常、映画を観る時のルートと言えば、入場→パンフ購入→ドリンク購入→座る、という感じ。今日も同じルートだ。
 ドリンクもまた、自分の分と七月さんの分を買う。
「はい」
 手渡そうとすると、七月さんは慌てて 「すみません、お金払います」
と、おっしゃる。その程度のお金、なあ?
「いいからいいから」
「そうですか? すみません」
「七月さん、そこはすみませんじゃなくて……」
「ありがとう、ですよね?」
「そ」
 わかってんじゃん。まあ、いつも職場で若い連中に言ってるからな。鬱陶しいと思われているかも知れないけど。
 そうこうしているうちに上映時間となり、俺たちは席に座った。今日は平日だからだろう、あまり混んでいない。大体真ん中辺りに陣取った。

 約2時間後。
 映画は終了し、俺たちは映画館を後にした。
(映画を観た、じゃあさよなら、じゃなあ……)
 そう考えた俺。
「ハラ減んない? って言うか、飲みに行かない?」
 彼女を誘う。
「え? ああ、いいですよ」
 ああ、と、いいですよ、の間に微妙な間があったな。乗り気じゃないのか。
「無理にとは言わないけどね」
 多少寂しい気はするが、そう言わざるをえないな。言葉ではなく、態度で示されちゃ。
「そんな。無理なんてしてませんよ」
 七月さんは顔の前でブンブンと手を振る。
 ケンカをしているわけじゃないが、なんとなく気まずい。が、だからと言って、すぐ発言を翻すのもかっこ悪い。さほど離れていない位置にある、大手チェーンの居酒屋を目指して、 俺は歩き始めた。そのあとを少し俯きながらついてくる七月さんの姿が、後ろを見なくても感じ取れた。

「もっとシャレた感じの店の方が良かったかな?」
 なんとなく、申し訳なく思った俺は、詫びる気持ちを含めて彼女に切り出した。
「いえ、私、こういうトコにも時々来ますから」
 嘘だ。社交辞令だな。彼女、なんとなく落ち着かないもの。慣れていないのがすぐに分かる。
 適当に頼んだモノは一通り運ばれてきた。七月さんが飲んでいるのはソフトドリンク、ではないが、ジュースのようなアルコール類ばかり。一方の俺はナマ中(4杯目)。
「お酒強いんですね」
 オドロイタように言う。
「顔にも出ないし」
「まあね。だから目上の人と飲みに行くときは結構飲まされるんだ」
 苦笑交じりに答える。
「大きな声じゃ言えないけど、小学生の頃から爺さんの付き合いで時々飲んでたからな」
「え〜、ダメじゃないですか?」
 彼女が笑う。
「でも七月さんも結構飲んでるじゃないか」
「こんなのお酒のうちに入りませんよ」
 七月さんはグラスを小さく揺らしてみる。中の氷がカラカラと音を立てる。
 いつの間にか、さっきまでのちょっと嫌な状況から、二人は抜け出していた。
 それから1時間ほど経ったか。俺たちは店を出ることにした。俺は明日は休みだが、七月さんは普通に仕事だから、あまり遅い時間まで遊んでいるわけにはいかなんだ。
「今日はありがとうございました、その上、夕飯までご馳走になって」
 笑顔で礼を言う彼女。七月さんって、やっぱり可愛い子だな。それに気立てもいい。ファンが多いのも頷ける。そんなことを考えているということを悟られないように、 いつもと同じ調子で言う。
「いいよ。俺も久々に美味い酒が飲めたし、映画も面白かったしね。それに、一人で生活していると、よほど贅沢な暮らしをしない限りは余裕も出るってもんだからさ」
 昼間の雨の影響だろうか、冬を間近に控えているからか、肌寒い。腕を組んで歩けたら、暖かいだろうか? そんなことが頭をよぎったが、そんなことをするわけもなく、 俺たちは駅へと向かった。ただ、その時、心は少し暖かかった。

 上着のポケットから鍵を取り出し、ドアを開けた。一人暮らしだから当然誰もいないんだけど、あえて俺は「ただいま。」と、口にした。久々に女性と遊びに出かけて、 舞い上がっていたのかもしれない。
 そう言えば、初めて女の子とデートしたのは17歳の時だった。生まれて初めて交際した子だった。
 その頃から本を読むのが好きだった俺は、よく図書室に出入りしていた。
 まだ高校生だったからマンガもよく読んでいたが、図書室にはあまりマンガはなかった。だから、専ら小説を読んでいた。彼らの日本人作家の書くSFを好み、 その世界に入り込んでいた。
 そのころから顕著だったのは、過去を扱った作品には興味がなかったことだ。今でも歴史小説などまともに読んだことがない。もっと言えば、社会科の勉強も興味がなかった。 成績は悪くはなかったが、好き嫌いと成績の良し悪しは無関係だ。
 梅雨が明け、少しずつ夏の気配が近づいてきた頃、その図書室で司書係をしていた子と仲良くなった。
 彼女の名前は森野こずえ。俺より1年後輩だった。彼女の名前も冗談のようだが本名だ。どうも俺は変わった名前に縁があるらしい。いや、そんなことはどうでもいい。
 俺たちは放課後の図書室で毎日のように会っていた。他愛もない話をすることもあったが、何も話さずに、ひたすら本を読み続けることが多かった。それでも、同じ時間を 過ごしているという意識があった。俺にも、そして、彼女にも……。
 仲良くなってしばらく経った、秋の、雲ひとつない青空が綺麗な日だった。俺は、彼女から相談を受けた。
 彼女には付き合っている男がいた。中学の同級生だったが、高校に入ってからは会うことも少なくなり、電話をすることも減り、寂しい想いをしていたと言う。
 どうすればいいのかわからない。彼女はそう言って俯き、頬を濡らした。
 一番見たくない光景だった。
 彼女の心の傷を癒してあげたい。そう思ったとき、俺は彼女を好きになっていたことに初めて気付いた。
 それでも、彼女とその彼氏との仲が上手く収まるようにという思いはあった。
 だから、言葉で元気付けた。それ以上でもそれ以下でもなく、ただ素直な言葉だけが全てだった。

 それから何週間か経った日の放課後、一緒に下校していた人気のない道で、彼女は笑って俺に言った。
「先輩、私、別れちゃった」
 納得できなかった。
 俺は強く責めるように問い質した。その時まで彼女に対して、怒るとか責めるとか、一度もしたことはなかったが、その時初めて彼女を怒鳴ってしまった。
「バカ! なぜだ!?」
 その瞬間、彼女の目から大粒の涙がこぼれた。
「私の気持ちも、彼の気持ちもどんどん離れて行ってるもの。お互い、別の方向を向いてるの。もう、ダメなの……、もう……」
 その場で彼女は泣きじゃくった。俺はどうしていいのかわからなかった。でも、体が勝手に動いていた。
 抱き締めた彼女の体は、思っていたよりも随分小さく、今にも折れてしまいそうだった。
 けど、そんなことがあったにもかかわらず、しばらくの間は、俺たちの仲がそれ以上進展することはなかった。
 文化祭では模擬店を一緒に回ったりして、楽しい時間を過ごしたが、それだけだった。それだけで、充分だった。
 でも、それは俺が気付いていなかっただけで、着実に親密度は増していっていたんだ。

 秋が終わり、冬の寒さが吐く白い息でわかるようになった頃。その日、図書室で、目前に控えた期末テストの勉強をしていた俺は、閉館時間になり帰路に着いたとき、 校門を出たところで、彼女に呼び止められ、冬休みの予定を聞かれた。
 そして、今日と同じように、映画に行かないかと誘われた。もちろん断る理由なんてなかったから、二つ返事で誘いに応じた。テスト期間が終われば出かける約束を交わした。

 映画はベタベタな恋愛ものだった。嫌いじゃないが、男一人では見ることはないであろうジャンルだ。
 映画館を出たとき、彼女は目を真っ赤にしていた。そんな彼女を可愛いと思った。そしてその時、彼女への想いが止められなくなっていることに気付いた。
 その帰り道、俺は森野に想いを告げた。彼女は小さく頷いてくれた。その時つないだ手は少し冷たかったが、心の中は熱いくらいだった。

 冬が来て、春が過ぎ、夏を感じて、俺たちが付き合い始めてから1年が過ぎようとしていた秋、二人の関係が少しおかしくなっていた。
 大きなトラブルもなく、平穏に過ぎていっていたと感じていた日々は、少しずつ、変わっていた。
 人はそのままでいられない。こと、高校生という多感な時期、成長という形で、或いは、別の形で、変わっていく。
 受験生だった俺は勉強に時間を割いていたおかげで、彼女と会う時間はあまりなかった。予備校通いという決められた時間の中、寂しい気持ちは大きくなっていた。 それが影響したのかどうかは今でもわからない。だけど行き詰ってしまったからと、彼女に会うのはかっこ悪いと思った。
「浩一郎が弱い人間だなんて思わないよ」
 いつか彼女はそう言ってくれた。でもそんな言葉を言って欲しかったんじゃないんだ。
 俺は「強くなりたい」と思った。寂しさに負けない心を持ちたい。そう思った。
 だから俺は、絶対に彼女に甘えないと決めた。
 俺が、会いたい、甘えたいという気持ちを抑え始めてから、俺たちが会う機会は激減した。
 会えないほど忙しいと思っていたのか、彼女からも「会いたい」という言葉を聴くこともなく、本当の意味での、寂しい時間が積み重なっていった。
 いつしか、想いはお互いを離れ、必要とする気持ちが薄らいでいった。俺も、そして、彼女も。
 付き合い始めて1年と2ヶ月程度過ぎた、12月25日のクリスマス。俺たちは別れることを決めた。その日交わしたキスは、お互いの気持ちを確かめるのにこれ以上はないと 言えるほどの手段だった。
 最後の2ヶ月はほとんど会わなかったから、実質付き合っていたのは1年ほどだった。

 大人になって分かったことがある。
 それは、愛する人になら迷惑を掛けることも、甘えることも、喧嘩することも、必要なプロセスであり、そういうことがあってこそ、本当のお互いを知ることができ、 お互いを尊重しあえる。それが大切だと。
 それが本当の意味で、愛し合うことなんだ。俺はそう思う。
 まあずっと独りもんの俺が言っても説得力はゼロだけどな。

 七月さんと映画を見た日から3日が過ぎた。
 俺が職場に来たのもあの日以来だ。その朝礼の場に、見慣れない女性を見た。館長に促され、その女性が簡単に自己紹介を始めた。
「初めまして、鷹見凛と言います。どうぞよろしくお願いします」
 幾分身長が高く、そこはかとなく、微かに色気を漂わせている、大人の女性、という感じがする人だ。けど、こういう女性は、どちらかと言うと俺は苦手なタイプだ。

 この小さな図書館でも、特に人が来ない場所がいくつかある。その一つが、今俺がいる「郷土資料室」だ。今日は所謂棚卸しの日なのだが、この部屋は小さいので、 俺一人が担当することになっている。更に言えば、今日の俺の仕事は、これだけ。
 バインダーにチェック用紙を挟んだものを腕で支えつつ、1冊1冊のタイトルなどを調べていき、後でまとめて、コンピューターで誤差をチェックする。
 朝からこの作業を初めて、気が付くと時計は11時に差しかかろうとしていた。
「少し休むか」
 職員用の休憩室から持ってきていた缶コーヒーを開け、近くにあった椅子に腰をかける。一口コーヒーをすすった後、俺は大きく息を吐いた。
「林原さん」
 その時、背中から俺に声を掛けたのは、七月さんだった。
「あ、七月さん、お疲れ」
「この前はありがとうございました。おまけにご馳走にもなっちゃって……」
「ああ、いいよ。俺も楽しかったし」
 こないだの別れ際にも礼を言ってたのに、改めて言うなんて律儀なコだな。
「あの、林原さん、お話があるんですけど」
「ん? 何、改まって」
「林原さんに伝えたいことがあるんです」
「伝えたいこと、って?」
「実は……」
 なんだかモジモジしているな。なんだって言うんだろ? も、もしかして、コクろうとしてるのか? いや、まさかね。
「私、私ね……」
 七月さんが何か言おうとしたその時。

 ブーン、ブーン。

 職員用のPHSがバイブレーションしている音がした。俺のではなく、七月さんのもののようだ。
「あ、すみません」
 一言断って通話ボタンを押す。
「はい、七月です」
 PHSから漏れ聞こえてくる声が異常にデカい。あのオバサンだな、きっと。
 彼女は二言三言、言葉を交わし、七月さんは通話を終えた。
「すみません、ヘルプが入っちゃって」
「ああ、声が聞こえてきたよ」
 苦笑するしかない、俺。
「それじゃ」
 軽く手を振って、七月さんは出て行った。
 それにしても、あのコ、何を言いたかったんだろう。気になる。が、俺にも仕事がある。小休憩を終え、俺は仕事を再開しようと立ち上がった。

 それからまた、しばらく俺と七月さんが同じ日に出勤する日が重ならずに、5日が過ぎた。
 その5日目の朝、恒例の朝礼での事。館長に促され、七月さんが前に出た。
「知っている人もいると思いますが、七月さんは、本日が最後の出勤となります」
 は? なんだそりゃ。
「じゃあ、七月さん」
「はい。みなさんおはようございます。今館長がおっしゃったとおり、みなさんと一緒にお仕事するのは本日で最後になります。今までありがとうございました」
 軽く衝撃を受けた。まいったね、こりゃ。
 そうか、あの時何か言いたげにしてたのはこの事だったのか。
 でもまあなんだ。良かったよ。自分でも変だと思っていたけど、好きになりそうな感じだったからな。本気で好きになる前にそういう話を聞けて良かった、うん。 やっぱり俺には色恋は似合わないよ。自分で言っててちょっと悲しいが。

 その日の夜、有志で集まった人間で「七月さんを見送る会」が行われた。どこのどいつが付けたのか、ベタなタイトルだが、要は飲み会だ。
「な、七月さん、ボ、ボ、ボク……」
 栗岡がなにやら七月さんに言い寄っている。その相手をしている七月さんはちょっと怯えながら栗岡の相手をしている。かわいそうだな、あれは。
「く・り・お・か・く〜ん。飲んでるか〜」
「あ、の、飲んでますよ。い、今ボク、七月さんと話しをしているんですよ〜」
「それよりこっちで飲もうぜ」
 そう言って強引に七月さんから栗岡を引っぺがす。俺は背中越しに親指を立てて合図をして見せた。七月さんが小さな声で、ありがとう、と言った、気がした。

 しばらくして酔いつぶれた栗岡をほったらかしにして一人で飲んでいる俺から少し離れたところで、同じように一人で飲んでいる女性がいる。俺は席を立つと、 その人の横に腰を下ろした。
「こんばんは、鷹見さん」
「あ、こんばんは、えっと……」
「林原」
「そう、林原さん。ごめんなさい、人の名前を覚えるのが苦手で」
「いやいや、同じ日に出社すること少ないから、仕方ないさ、うん」
 向こうの席では、七月さんが他の女のコたちと楽しそうに話し込んでいるけど、俺たちの間には、何気ない会話だけが続いた。女性と二人きりで話す機会が少ないからか、 本人に言うと怒られると思うけど、どうしても七月さんと比べてしまう。
 鷹見さんも七月さんと同じように控えめで大人しいタイプではあるけど、七月さんより年上のせいもあるのか、多少、影があるように感じる。言い方を変えれば、ミステリアス、 と言えるのかもしれない。
 それが感覚的に肌に合わないとか、気にいらないとかそういったことはない。それ以上でもそれ以下でもなく、ただ素直にそう感じる。

 俺たちの話しが一段落したところで、改めて七月さんから一言、挨拶があり、飲み会はお開きの時間となった。
 店を出たところで、二次会はなくあっさりと解散。今日は平日で、明日も仕事の人間も多いから仕方ないとは思う。ただ、最後の時だけは、もう少し続いて欲しかったのも 正直なところだった。

 帰り道。俺は帰る方向が途中まで同じだからと、七月さんと二人で歩いた。
 その道すがら、彼女は言った。
「本当はもっと早くお知らせしたかったんですけど……」
 数日間仕事を休んでいた彼女は、親の勧めで見合いをしたという。そして、その相手と結婚することになったそうだ。そのことは誰にも打ち明けていないと言う。
「映画館のデート、すごく大切な思い出になりました」
 最後に彼女はそう言い残して、駅の中に消えていった。彼女の背中に軽く手を振った俺は、踵を返し部屋に向かった。

第2章

 生きることに絶望している。と言うと、言いすぎだろうけど、それに近い感覚は、ここ数年抱いている。
 嬉しいと感じることも少なく、目線を上にあげて歩いていても、その視界に入ってくる青空が清々しすぎて、それが余計に自分がちっぽけなものだと感じさせる。
「俺、何やってんだろ」
 今、ベッドに倒れこんだままで殆ど動かずに物思いに耽っている俺は、心の中では思い切り唇を噛み締めている。
 七月さんのことも、少なからず影響しているかもしれない。孤独でいることが好きかと言えば、好きな部類に入るかもしれない。でも、ずっと独りでいるということは嬉しいことでは ない。
 友達が欲しいとかそういうことでもない。親友が一人いれば充分だとは思う。普通の友達とはあまり出かけたいとは思わない。
 自分に行きたいところがあるとする。その時同行する友人には気を使ってしまう。引っ張りまわしたりして、さ。相手からすると迷惑だろうし、めんどくさいだろう。 そんな気分を味わうのは本当に嫌だから、遊びに行く友達が欲しいとはあまり思わないが、なんと言うか、気持ちは満たされない。
 だからこそ自らを変えるべく、何かをやろう、始めようと考えるのだが、なかなか実際に行動に移すのはムズカシイ……。
 そんな忸怩たる思いを身に感じながら、寝返りをうってみる。
「ホント、情けない」
 つい独りごとを言ってしまう。
 駄目だ駄目だ。どんどん滅入っていっちまう。シャワー浴びてスッキリしよう!
 そう思った俺はベッドから跳ね起きた。

 浴室に入り蛇口を捻る。熱い湯が出てきた。その熱さを手で確認してみると、あろうことか、どんどん冷たくなっていく。
「なんじゃこりゃ!」
 そう叫ばずにはいられなかった。ガス料金は毎月しっかり支払っている(というか引き落としだから取られている感じに近い)からガスを止められるなんてことはありえない。 これは給湯器のトラブル以外の何物でもない。
「くそったれ」
 屋内に出てマイコンメーターを調べてリセットする。
(ホンット、なにやってんだ、俺は……)
 そう感じた瞬間、俺の心の中で何かが切れた。
(もう、いいや)
 心底そう思った。
 部屋に戻った俺は、何も考えるのはやめた。
 何もかもが無意味なものに感じた。生きていることさえもだ。着替えもせず、結局はシャワーも浴びず、再びベッドに倒れこんだ。
 すぐに眠りに落ちた俺は夢を見た。昔から良く見た夢を。それは、15年も前に好きになった女のコが出てくる夢。会わなくなって随分経つのに、そのコはまだ俺の中から消えない。

 空が青い。
 雲ひとつない。
 日差しは暖かく、風もなく、ただ心地いい。
 教室の窓から見える景色は、爽快で、講義の内容なんて一つも頭に入らない。
 専門学校の、退屈で、それでいて何かが起こりそうな予感のしていた日々が、いつも、この夢の舞台。
 チャイムが鳴り、講義の終わりを告げる。
 目の前にいたはずの顔の分からない講師は突然姿を消し、変わって彼女が現れる。男女の区別無く、彼女はあっと言う間に友人たちに囲まれる。
 俺は何故か、そこには入り込まず、気の無いふりをしている。
 15年間、何度も何度もみる、同じような夢。
 よほど、あの頃が懐かしいのか、それとも、あの頃がそんなに楽しかったのか。
 恐らくそのどちらでもない。あの頃の事はなるべく思い出したくない。良いことなんて、ロクになかったから。何か起こりそうな予感はいい予感ではなく、不吉な予感。
退屈なときがずるずると続いていくような、嫌な予感だった。
 彼女の名前は里見理恵。同い年。朗らかで美人の彼女に憧れている男が何人かいた。俺もその一人。
 俺の仲間の一人は彼女にモーションをかけた。ある男は、実際に彼女と付き合った。
 そいつの使った手が陳腐極まりないクサさだったらしい。そいつの名誉のために詳細は伏せておく。武士の情けだ。それでも二人は付き合ったと言う。その代わり、 ほんの数ヶ月で破局したが。ちなみにそいつは別の女性と結婚し、幸せに暮らしている。

 夢のことに話を戻そう。
 彼女に気の無いふりをしているのはもちろんフェイク。話がしたい、近くにいたい。その思いは確かにある。
 それでも自分の気持ちを押し殺そうとしている。
 こずえと別れる結果と引き換えに手に入れなければならなかった受験合格という結果は、無残にも叶わず、専門学校へと進路を変えた。映像の仕事がしたい。俺はそう思い立った。
 だがいきなりの思い立ちでうまく行くほどいい人生など無い。結局この夢にはたった1年で挫折するのだが、そのころの事が、今見ている夢だ。
 夢の中で、気が付くと帰り道を歩いていた。次の瞬間、自転車をこいでいる俺。坂道を登りきる。自転車を止めると、広い土手が見渡せた。自転車を再びこぎ出すと、 後ろには女のコが乗っている。振り返ってみるが、顔は見えない。声は聞こえるんだけど、聞いた覚えのある声に感じるだけで誰の声かは分からない。
 おもむろに地図を広げた俺。だけどその地図はなぜか世界地図。
「こんなもんでどうしろって言うんだ?」
「そうだよね」
 そのコは笑う。
「ったく」
 俺も笑う。
 自転車は、しばらくして高校の校舎にたどり着いた。
 二度と訪れることは無いだろう。そう思っている校舎なのに夢の中ではこうして何度も現れる。
「ここ、俺が通ってた学校」
 振り向いて後ろにいるはずの彼女に説明する。でも、そこについさっきまでいた彼女の姿は見えない。
「どうしたんだろ?」
 もう一度前を向くと、そこは専門学校の教室。
「わたしね、歌手になろうと思うの」
 里見さんは俺に言う。俺を背中から抱きすくめて。
(あたたかい……。)

 そう思った瞬間、俺は夢から覚めた。
「またかよ……」
 一体何を意味しているのか全く分からない。夢だから登場人物ははっきりしないし、場所だってコロコロ変わる。
 色々な思いが、俺の頭の中で走り回っている、という気はするが、その夢が何を伝えようとしているのかが解らない。それを知りたい。でも、所詮は無いものねだりなのかな?  とは言え、人生、無いものねだりで埋め尽くされているような感覚が、実はある。実質的には無いものねだりというほどのものではなく、ただ単に欲望と呼べるものだろうと思うけど。 その思いを満たしていく事が、生きていくという事とイコールだと思う。
 でも、満たしていく事が出来なければ出来ないほど生きていく事が辛くなる。今の俺がまさしくその状態。
「どうすりゃいいんだろうな、俺は」
 いくらその答えを求めてつぶやいてみても、意味が無いとは思う。それでも、つい口をついて出てしまう。
 それはやがて、さっき眠る前に俺自身が心で思った言葉に帰結する。
「もういいや……」
 開き直る事だけが、今の俺に出来る事だった。
 時計は午前4時を少し回ったところ。陽はまだ出ていない。おかしな夢のお陰で目が覚めたが、まだ眠い。明日は、というか今日は俺も出勤日。もう少し眠ることにした。

 職場。
 昨日までいた人がいなくなってしまった、その、ほんの少しの寂しさを感じる。それでも相変わらず栗岡もおばさんもいる。こう言ってはナンだが、 この人たちは別にいなくてもいい。この人たちが辞めてしまえばいいのに、と思う。七月さんの方が……、いや、それ以上は止めておこう。俺自身、本当に嫌なヤツでしかなくなる。 気を取り直して、俺はカウンター業務に付いた。この職場は各部署が持ち回りになっている。今日の俺はカウンターの当番だ。
 この仕事が嫌、違う部署にしてくれ、そういうことは一切思わない。どの仕事にもいいところ悪いところがある。例えばこのカウンター、世間一般の昼休み、夕方には客が増える。 特に夕方は人も多いが、一人一人が借りていく冊数も多いことがままある。一人で二桁いく人も何人かいる。コンピューターやらマシンやら使ってるとは言え、それなりに苦労はある。 でも、その時間帯を除けば楽なんだ。
 こないだみたいな棚卸は手が汚れるし、ほこりは舞うしで健康にはよろしくないように思えるが、一つの事に集中できる利点がある。そういう仕事は時間が経つのも早く感じられて、 気持ち的に楽だから好きな部類だ。
 ただ一つだけ、出来ればやりたくない仕事もある。子どもへの読み聞かせだ。開催は土日だけだが、子どもたちに絵本を読んで聞かせるのだ。 何が嫌かってそれはどうしようもないくらいにはっきりしている。俺は子どもが苦手だ。子どもというのははっきり言って大人をなめていると思う。 俺が子どもだった30年前ならいざ知らず、今日日の子どもはタチが悪い。自分勝手でわがままで、人の気持ちなんて考えない。自分がよければそれでいい。軽く怒ると小バカにし、 本気で怒ると泣き喚く。
 昨今、学校でも子どもの横暴がまかり通っているというような事をテレビなどでよく見聞きする。ちょっと叩くと体罰だと親が怒鳴り込んできたり、もう、 家族ぐるみで手に負えない。俺は結婚なんてとっくの昔にする気はなくなったが、もし仮に結婚して子どもが出来たなら(結婚したからって子どもが欲しいとは思わないだろうが)、 従順で、素直で、聞き分けのいい子どもに育てたい、と思う。俺は子どもの頃、優等生ではなかったが、なるべく周囲に迷惑が掛からないように、と生きてきた。 学校では「自分がやられて嫌な事は人にするな」と教えられた。そういう子どもが多くなれば、日本の将来も少しは幸せになるんじゃないかな、と個人的には思う。 あくまで個人的にだけど。
 ちょっと話しがズレてしまったけど、とにかく子どもの相手はしんどい。折角読んであげているんだから、大人しく最後まで聞いていてくれれば、 読み聞かせだって苦手じゃなくなるのに。そんな事を考えていると、館長が鷹見さんを連れて俺のところにやってきた。
「ハヤシ君、ちょっといいかな?」
 館長は俺のことを「ハヤシ」と呼ぶ。本人いわく「五文字の名前は言いにくい」のだそうだ。
「何ですか?」
「鷹見さんにカウンター業務を教えて上げて欲しいんだ。カウンター業務はまだ3回目で……」
「あの、2回目です、館長」
「ああそう、2回目だから、付いててあげてくれるかな?」
 どうにもいい加減な人だ。でもそれが長所でもあったりするんだ、意外と。
「分かりました」
「じゃ、頼んだよ」
 それだけ言うと館長はそそくさとその場を去った。
「すみません、よろしくお願いします」
「謝らなくていいですよ。悪いことしてるわけでなし」
「そうですよね、すみま、あ……」
 どうもこれは彼女の癖のようだ。かわいらしいところがあるね、なんとも。ちょっとポイント高いかも。
「何? 何ですか?」
 怒っているような、戸惑っているような複雑な表情で鷹見さんが訊いてくる。
「え?」
 何を言っているのか一瞬理解できず、答えようがなかったが、少し考えて分かった。
「あ、何でもなんだ、ゴメン」
 どうやら笑った時に声も出してしまったらしい。
「可愛いところあるんだな、って」
「な、何言ってんですか。もう」
 怒っているようだが照れているのが分かる。まんざらでもないらしい。もっとも、褒められたのに単に怒るなんて人は、はっきり言ってひねているだけだと思うけど。
「こんなオバサンに言うセリフじゃないですよ」
「すみません」
 そういうものなのか、俺はよく分からないが、一応謝っておいた。と、そこにちょうどお客さんが来た。
「わからない事があったらなんでも聞いてくれていいから」
 小声で彼女にそう言うと、俺は軽く体を横にずらし、彼女がメインになるように立ち居地を変えた。ちょっと偉そうな言い方だけど、俺は今、彼女の教育係なんだ。 そういう考えからの行動だったのだけど、鷹見さんは少し違った捉え方をしたらしい。随分後に聞く話だけど、一連の動作が「さりげない優しさ」に感じられたそうだ。 いつかも同じような事があったけど、そういう事はその場で言ってくれればいいのに、と思う。それは昔から思っていることだ。そうしてくれたら、 俺の女性に対する態度というか動き方も変わってくるし、こんな年になって独りでいるような事にもならなかったと思うんだけど。今更言っても仕方ないけど、な。

 結局この日は一日カウンター業務だったが、彼女は頭がいいのだろう、俺が何かを言うまでもなく、テキパキと仕事をこなしていた。 ピーク時には多少慌ててしまう事があったものの、完璧な営業スマイルで特にクレームがつくでもなく、見事、だった。

「今日はありがとうございました」
 最後のお客さんへの対応が済むと、鷹見さんは俺に礼を言ってきた。
「いや、俺、何もしてないし」
「そんなことないです。林原さんがいてくれたんで今日一日やり過ごせたんです」
 俺は謙遜して言った訳ではなく、本当に大した事はやってない。もっと言えば、何もする事がなさ過ぎて申し訳なく思っているくらいだ。でも。
「そう言ってくれると助かるよ」
 それが正直な気持ち。
 それにしても、仕事は器用にこなすし、礼儀も正しい。ベタな言い方をすればスーパーウーマンだな、彼女は。

 一日、快い就労時間を過ごせたからだろうか、今夜はぐっすり眠れた。だが、そんな夜にもかかわらず、彼女がまた夢に出てきた。例の如く、あの頃と同じ佇まいでだ。

 同じグループだった。課題を協力してこなすのが目的だった。だけど、そこは夢の中。他の生徒はいない。この場にいるのは俺と彼女の二人だけ。億劫な気持ちのその裏で、 浮かれている。ガキっぽいかもしれないが、男ってヤツはそういう生き物だ。体が大きくなって、腕力があっても、精神的な部分は、いつまで経ってもガキ。
「だから、ここはこうやった方が面白くなるんじゃない?」
 彼女が言う。
「う、ん。そだね」
 曖昧な返事を返す。
「ねえ、聞いてる? 林原」
「聞いてるよ」
 夢の中。聞いてるも何もない。目の前の資料に何が書いてあるのかも読めないし、何をやっているのかも分からない。ただ、彼女が目の前にいる。それが全てだった。所詮、 俺たちは仲間、よく言って友達。そこまでの関係でしかない。その事が尚更今の状況を浮き彫りにする。友達のその先など、ない事は分かっている。それでもほのかな暖かさを感じる。
 そんなことを考えていたら、彼女は怒ったように
「もういい。帰る」
 と、席を立った。
「え、ちょ、ちょっと! ちょっと待ってくれよ」
 こないだ見た夢では自転車に乗っていたが、今回はなぜか歩いている。彼女の背中が少し遠い。
「里見、どうしたのさ。何怒ってんだよ」
「怒ってないわよ!」
 振り向きもせずに答える。というか怒鳴る。
「……怒ってんじゃん」
 そっちがそういう態度だと、こっちもそれなりの態度になる。突然、彼女は立ち止まった。
「ね、林原」
 急に変わった。彼女の態度。
「な、何?」
 振り向いた彼女は何か言った。口許は確かに動いている。それなのに何も聞こえない。
「え、何だって? 聞こえないよ」
 それからも彼女は何かを言っていたが何も聞こえてこない。やがて辺りは闇に包まれ、そして、何も見えなくなった。
「なんなんだ?」
 そこで俺は目を覚ました。
「また、おかしな夢を……」
 半身を起こした俺は、あまりの気分の悪さに毒づいた。
「なんでいつまで経ってもあのコが出てくるんだよ、まったく」
 だけど、おかげで思い出した事がある。
「そう言えば、俺、あのコに三回フラれたんだっけな」
 思わず苦笑いが浮かんだ。
 同じ専門学校にいた期間はたったの一年。俺が途中で辞めたからだ。と言っても、フラれたから辞めたわけじゃない。いや、少しは関係しているかもしれないけど、 直接の原因は以前も話したかもしれないが、思いつきで入った学校だったからだ。昔から映画を撮りたかったとか、熱烈な映画マニアだったとか、そういう事は全くなかった。 好きな部類ではあるが、語れる程詳しくはなかった。
 最初にフラれたのはいつだったっけか。そうだ、休講の日の夜だったな。
 その日、学校で一言も話すことができなかった。緊張していた、という理由ではない。俺は俺で、里見は里見で話をする友達や仲間がいたから、 そのタイミングがなかっただけのことだ。
 それだから電話をした、と言うのが正直なところだった。俺たちは普段から友達だった。でも、俺はそのポジションに甘んじておく気は、とっくの昔になくなっていた。
 何回目のコール音の後だったかなんて覚えちゃいない。でも、待たされた覚えもない。どれほどの時間がかかったかは分からないが、彼女が電話に出た。 しばらくは他愛もない世間話をしていた。が、そんなことを話すために電話したわけじゃない。話がひと段落したところで、俺は勇気を持って切り出した。
「ところでさ……、里見、俺のことどう思ってる?」
「え、どうって……、仲のいい友達だと思ってるよ?」
 予想通りの答え。
「でも俺はそうは思ってないんだよ、これが。俺、里見のこと好きなんだ」
 そう言った俺への、彼女の具体的な返事は覚えてない。ただ、電話越しに伝えられた現実は、それ以上の関係にはなり得えないものだった。
 振られることは分かっていた。いつだったか、二人で遊びに行こうと誘ったとき、彼女は「他にも誰か呼ぼう」とか言いやがった。その時点で、予想はついていた。 思っていたとおりの返事が、今、俺に告げられた。
 だけど、俺はそこですぐ引き下がる気にはなれなかった。
 その後、2度3度とアタックするものの、望んだ答えは得られなかった。その3度目……。
「それは、これで3回振られたってことでいいのかな?」
 自分でもう一度確認するかのように、俺は里見に言った。受話器の向こう、彼女は笑った。
(何が面白いんだ、このコ?)
 正直、そう思った。
 彼女を責める気はない。そこで踏ん切りがついたのが事実だった。その日以来、俺が里見と言葉を交わすことは、2度となかった。
 その時から20年間、誰にも告白らしい告白はしていない。そして、今も独りだ。
 寂しいと思うことは、やはりある。だけど、前にも言ったと思うが、一人でいることのほうが、正直言って楽だと思えるんだ。もしも恋人を求めてしまうと、 そこに必要なことは「従順」であることになってしまう。でも、そんな関係を恋と呼んでいいのだろうか? そんなことを考え始めると、やはり恋など出来ない。いや、 少なくとも俺は恋をするべきではないと思う。若いころに好きになった人のことを久々に思い出したけど、苦い経験だったと思えると同時に、必要な経験だったとも思える。
 林原浩一郎という人間は、とにかく不器用にしか生きられない。学生時代の友人は結婚しているヤツも当然いる。それはそれでいいことだと思うし、 仕事で成功している人間も立派だと思える。でも俺は何もかもが中途半端で、どうしようもないヤツなんだ。それを痛感している。また、 客観的に自分を捉えてみるとつくづく実感する。
「ほんと、つまらない男だな、俺は……」

プロローグのないエピローグ

 季節は変わった。今、色々あったあの時を振り返ってみると、切なかったけど、確かな意味があったように思える。この歳でこういう事を言うのもヘンな話だけど、 一皮剥けた気がするんだ。
 もっと昔……、学生だった頃の恋を思い出せたおかげで、この「現在」をどうやって生きていけばいいのかが、見えてきた。
 基本的な生活は変わっていない。贅沢はしていない。でも生活に困っているわけでもない。心を熱くする女性に巡り会えたわけでもない。でも数ヶ月たった今を、悲観的にならずに、 まっすぐに生きていくことが出来ている。
 こんな俺を、彼女はどう思うのだろう。
(別につまらないなんてことはないです。)
そう言ってくれるのだろうか?
 それとも……。
「林原さ〜ん」
 俺を呼ぶ声がする。何も言わずに立ち上がり、呼び声の主のいる場所に向かった。
「あ、林原さん、実は……。」

 これからの俺がどうなっていくのか。自分自身に期待しながら、生きていこうと思う。無理はしないで、かと言って、手を抜いたりもしないで。自分の出来る範囲で。 そうやって生きていくことで、未来が開けていく、そんな気がする。







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